風あざみと陽炎と (5)

 鼻から息を吸うと潮の匂いがした。本当はしていないのかもしれないが、海に面しているという知識が鼻腔に海を立ち上らせていた。過去、砲台が設置されたことからその名がついた土地、お台場。来るのははじめてではないが、片手で数えられるほどしかない。それでもなぜか知っているような気がするのは何かと話題に事欠かない場所だからだろう。


 自由の女神像が世界を照らさんと鎮座している。これほど小さくて世界を照らせるのかと不安になるが、当然物理的な問題ではないのだろう。そもそもこれは本物ではない。ただ、アメリカにある本物も見ると意外と小さいと言われているらしい。しかしそれも、自由を象徴する女神像に対して人が「きっと大きいはずだ」と無意識に期待するからなどという理由があるならば、それはそれで結構なことではないかという気はする。


 このお台場の女神像をはじめて見たのは修学旅行で訪れたときだ。枚数制限のあるカメラで、貴重な一枚を削って収めたことを覚えている。しかし二度目以降は、知識と地図で補完するように景色を完成させていた。

 そんな女神像を今更感慨深く見つめてしまったのは、お台場にあった商業施設ヴィーナスフォートが閉館したと理沙から聞いたからだった。


「しんみりしてますね。さっきの話ですか? 何か思い出があったんですか?」


 隣から圭子ちゃんが尋ねてくる。よそ行きの格好をしていた。ふわりとしたシルエットの白い服。たまに街中でも見かけるため流行っているのかもしれない。下は明るい薄紫のスカート。いつもの部屋着とまったく同じ格好で出かけようとしていたものを、理沙に全部取り替えられていた。その理沙は今はいない。ごみ箱を探してしばし放浪している。だからだろうか、圭子ちゃんの声は油断してくつろいでいた。


「観光として来たくらいだ。強い思い出はないよ」

「じゃあ……誰かの思い出が無くなることが悲しいですか?」

「さすがにそれはないよ。そこまで格好つけてない。ずっとあったものが無くなることに心が揺さぶられてしまうのかもしれない」


 圭子ちゃんは「そうですか」と軽く引き取ると、視線を女神像に向けた。ふたりで黙って見続けていた。少し離れたところで子どもが「自由の女神だ! 本物?」と騒ぎはじめた。それが葉鳴りのように空気を震わせ、やがて落ち着くと、圭子ちゃんがぼつりと言葉を零した。


「良さん、普通のことですからね」

「え?」

「普通のことですから」


 その時、建物の角を曲がり理沙が戻ってくるのが見えた。歩きながらペットボトルの蓋を開け、ぐっと流し込む。俺の視線を読み取って、遅れて圭子ちゃんも気が付いた。


「寂しいねって言っていいってことです。ほら、お姉ちゃんに甘えましょう。行ってきてください」


 ギアを上げるみたいに声の調子をはっきりとあげて言うと、俺の背中を軽く押した。

 顔を圭子ちゃんの方に向けると、見送るように手を振っていた。追い払われたなら抗議のひとつでもしたが、どうにも調子がでず、頬をかきながら理沙を迎えに進む。


「おや、どうかした?」


 近づくと理沙が不思議そうに尋ねた。


「いやどうもしてないんだけど……」


 首を捻りながら理沙に答えると、圭子ちゃんが遠くからはしゃいだ大きな声で名前を呼んだ。


「良さん! お姉ちゃん!」振り返ると、圭子ちゃんが小さい子のするみたいに体全体を使って大きく手を振っていた。「わたし、もうお腹が我慢の限界です! ちょっと行って買ってきますから、待っていてください!」


 一方的に叫んで、こちらの返事も待たず圭子ちゃんは走り去ってしまった。

 呆気に取られて、どうしようかと追い付けないことがはっきり分かる以上無駄な問いを抱いて理沙の方を向くと、理沙も片眉を上げて苦笑していた。


「あれは」

「二人にしようとしているんだと思うよ」


 それならじゃあ待ってみようかと理沙が言った。室内に行くかと聞いたが、外でいいと返事。手ごろなベンチを探して腰掛けると理沙がおもむろに切り出した。


「圭子さ、無理していると思う?」

「しているような気はするな」


 答えると、そうだよねと呟き唸った。


「二人きりのときはどう?」

「まだそんなこと言うのか。別にそんなんじゃないって」

「分かってるよ。そうじゃなくて、原因の切り分けが必要でしょ」

「……ごめん」


 理沙は気にした様子もなく「それで?」と続きを促してくる。


「気を遣っているような感じはあるけれど」


 二人きりの時に態度が違うのは明らかだが、無理をしているかというのは気にしていなかった。負担はかけてしまっている。だが、理沙が尋ねているのはそういった話ではない気がした。


「無理ではないと?」

「少なくとも心配するようなものではない……と思うが」

「そっか……だったら、まあ気長にやっていくしかないか」

「そうなんじゃないかな」


 さほど残念そうでもなく受け止めていた。ある程度は想像していたのだと思う。時間のかかることだと思っているのか、時間が解決してくれることだと思っているのかは分からない。ただ、待つことが最善手であれば、余計なことをしないで待つのだ。理沙はそういう人だった。


「良は大丈夫?」

「何が」

「自分を呪ったりとか、申し訳ないと思ったりとかしてない?」


 驚いて思わず理沙の方を見た。自分も同じように心配されているとは思わなかったのだ。


「大丈夫だよ……おかげさまで」

「良も圭子もさ、凄く難しい立場にいるけれど、二人とも全然泣き言を言わないじゃない。正直さ、二人ともそんなに友達も多くないし、その点は結構心配しているんだよね」


 年上ぶって理沙が言った。理沙の目から何が見えているのか分からなかった。彼女は温容で沈勇だった。不意に、もしかして最近の外出は必ずしも圭子ちゃんのためではなかったのではないかという思いが頭に昇ってきた。


「安心とか幸せとかが、人の役に立った時しかないでしょう。身内がそれって嫌よ」

「そんなことないさ。単純だよ、俺は。理沙といられたらそれだけで幸せだし」

「私は良にとって特別だから別。それ以外よ」

「それ以外でもあるよ。普通の娯楽とか、寝るだけでも幸せだって」

「どうかな。そういうのも全部、結局大きな流れとして自分が人助けを向いているからこそ機能しているんじゃないかな」

「どういうこと?」

「良って学生の頃、多分どうしても勉強を捨てることが出来ない人だったでしょ。学生の本分は勉強ってね。……じゃあ大人の本分はなんなんだろうね?」


 理沙は首を少し傾げて、僅かに微笑みを見せた。答えを求めた問いかけではなかったようで、すぐに自分で会話を引き取る。


「勉強が絶対必要じゃなくなって、良は代わりに人の役に立つことがそこに居座っているように思うの。自分で置いたのか、誰かに置かれたのかは知らないけれど」

「……別にいいじゃないか。つまりは人助け以外が息抜きみたいだって言いたいんだろう? 結局人の役に立つ以外でもくつろげているということだ。仮に没入度や向き合い方の真摯さで本質に触れられるか否か変わったとしても、俺は構わない。そこらへんは二律背反なんだ」

「もう、堅苦しいなー……そういうところ! 息抜きが下手だって言ってるのよ」


 理沙が屈託なく笑った。それで空気は軽くなったが、心には端に鉛をくくりつけられたような不安定な重さが残った。

 太陽が最も高くなる時間になっている。暖かい日差し、適度にそよぐ風、それであればついまどろんでしまいそうだが、俺たちは日陰となるベンチに腰を下ろしていた。だからだろうか。足りないものに震えるような肌寒さがあった。

 迎えに行った方がいいのかな、と言いながら理沙が鞄から携帯を取り出した。


「そういえばヴィーナスフォートの跡地には、多目的アリーナが出来るそうだよ」


 文字を入力しながら理沙が言った。

 無くなるということは、生じる空白を必ず何かが埋めなければならない。無くなる前よりも良いものが生まれるとは限らないし、虚無によって埋まることもある。

 多目的アリーナとはコンサートなどのイベント会場ということだろうか。

 そこそこ広大な土地ではあると思うが、東京ドームであったりと比較してどの程度とは判断つかない。だがやはり東京を代表する存在のひとつとなるのではないか。しかし、イベント会場ならばおそらく俺が足を運ぶことはほとんどない。

 また東京が小さくなる。恐れはなかった。知らない土地でも生きていける。どこへも行けなくとも生きていける。そう思っている。

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