歴史の通った (5)

 家に帰ると理沙は中の案内をしてくれた。案内といっても二人で暮らすのに十分といった広さの部屋だったからそれほど時間はかからなかった。

 日当たりがよく洗濯物がよく乾くこと。キッチンは収納も多く、調理スペースも大きくて使いやすいこと。風呂とトイレが別になっており、さらに風呂はゆったりと出来る広さを備えていること。後は理沙と俺がそれぞれ個人的に使用しているスペースについて説明してくれた。どれをとっても以前ひとりで暮らしていた物件よりも質が高い。築年数が浅いのか、リフォームをしてあるのか全体的に綺麗な印象も受ける。駅からもそれほど遠くなかったはずだ。


 すべて説明し終えて再びリビングに戻ってくる。これで終わりと言われた後も興奮でしばらく動けなかった。家の無いような生活をしばらく送っていたせいで忘れていたが、そういえば自分は物件情報を見るのが好きな人間であったことを思い出した。

 久しぶりに自分の抱えている問題を忘れて充実した時間を過ごしてしまった。しかし思ったよりも罪悪感は少なかった。先ほどの公園での時間を経て、刺々しい気持ちが和らいだことは大きいのかもしれない。

 家のレベルの高さに満足して立ち尽くしていると理沙がこちらをじっと見つめていた。探るような視線がこそばゆい。据わりが悪く身じろぎをすると、理沙は表情を緩め得意気に数度頷いた。


「家賃は十万」

「十万円!?」


 俺の反応を見て理沙は十分に満足したようだった。腰に両手をあて、にんまりと笑い、さらに大きい動作で首を縦に振っている。


「凄いでしょ。頑張って探したんだよー……良が」

「俺か」


 実はそうかもしれないとは少し思っていた。あまりにも好みに合い過ぎている。


「もう凄かったよ、あの頃は。寝言も例え話も全部家だったね。『分かる!!分かる!!すげえいいと思った部屋が内見したらミニ冷蔵庫ついてたみたいな感じな!!』とかさ。ちょっと責任を感じたねえ」

「さすがに嘘だろう。ひどい例えだ。テンポも悪いし」

「いや、寝言」

「……」

「冗談だよ」


 理沙は軽く笑ってそう言うと、キッチンへと向かった。どうやら晩御飯を作りはじめるようだった。鼻歌を歌っている。俺も知っている十年ほど前に流行ったアイドルの曲だった。

 手伝いを申し出たがほとんど不要だった。料理は午前のうちにすべて作り終えており後は温めるだけだったからだ。だからコップや箸を並べて食卓を整えると、すぐに出来ることはなくなってしまった。


「テレビでも見ててよ」


 理沙が気を遣って言ってくれたが、俺はキッチンで慣れた様子で動く理沙の姿を観察することにした。視線に気付いたのか理沙は一度こちらを見たが、目が合うと首を傾げて小さく手を振り、何も言わずに作業に戻った。

 横柄に思えたからそうしただけだったが、すぐにテレビを見るべきだったと後悔した。理沙は正しい助言をくれていたのだ。

 レンジとコンロを並行して使用している。それだけだ。日常だ。だが一度見るともう目を離すことは出来なかった。心が惹きつけられている。それでいてずたずたに心を裂いてくる。まるで完成されたジグソーパズルを見ているようだった。秒針の音がいやによく聞こえる。規則正しく時間を告げる音は拷問のようだった。

 思えば普通に生活している理沙を見るのはこれがはじめてかもしれない。俺はひどくうろたえた。

 つい今朝まで「もし理沙の記憶が戻らなかったとして、それが日常になってしまうのだろうか」と考えていた。入院の間何度も考えたことで、結論はいつも同じだった。俺が許せるかどうかの問題になる。そして俺はおそらく許すのだろうと思っていた。たとえ発狂に怯えながらになったとしても。


 しかし、それはひどく不遜な態度だったと今さらながらに気が付いた。


 この生活は過去誰かが営んできたものであり、今俺と理沙が紡ぐものであり、俺と空想の誰かが偲ぶものではなかった。自由と正義に縋りつくことで生き延びてきた。その生き汚さの成れの果てが、幸福に喉を鳴らしていた。


 すべての料理がテーブルの上に並ぶ。刺身やローストビーフ、豚カツ、麻婆豆腐など統一を欠いたメニューだった。どれも俺の好物だ。誕生日会かクリスマスのような華やかな食卓を前にして、俺は下唇を噛み涙をこらえる。表情を作るため一旦顔を俯かせた。目をきつく閉じて相応しくない思考を頭から追い出すように努めた。

 顔を上げると、理沙は両手を合わせて俺のことを待っていた。慌ててそれに倣う。


「いただきます」


 はじめはそれだけ言った。しかしすぐに継ぎ足した。


「それと、ただいま。理沙」


 理沙は口を小さく開けて固まった。食事に落としていた視線を急に持ち上げて俺を見た。目を見開いていた。わずかに見つめ合った後、合わせたままの両手に近づけるようにして顔を俯かせた。神様にお願いをするかのような姿勢だった。そのまま息をいっぱいに吸い込んで深く吐き出す。やがてゆっくりと元の姿勢に戻ると、落ち着いた口調で言った。


「お帰り。いただきましょう」


 そして弾けるように笑った。

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