歴史の通った (6)

「会社は辞めようと思うんだけど、いいかな」


 夕食がはじまり、しばらく。会話の切れ目を狙って理沙に話題を振った。自分の話を能動的にするのははじめてかもしれない。そんな余裕がなかったことは確かに理由のひとつだが、いよいよ現実として向き合わねばならなくなったという方が正しいだろう。記憶について楽観的な側面があったことと、今目の前の理沙に対して誠実さを欠いていたことは否定しきれない。


「お金とかそういうのはいいんだけどさ、良はいいの?勿体なくない?休職とかは出来るかもしれないよ」

「でも、何も覚えてないからさ。許されても、居づらいよ」


 何も覚えてないと言うと、理沙は持ち上げかけていた箸を下げ、強く唇を結んだ。ずるい言葉であるのは分かっていたが、事実である以上仕方がない。確かに本当に記憶喪失であるならば俺も期待したかもしれない。いつか記憶が戻るかも、何か覚えていることがあるかも、と。

 しかし、俺はそれが起きないことを知っている。IT企業が何を覚えるのかは知らないが、五年前から知識の変わっていない俺が追いつくには相当な努力が必要だろう。今は、いくつも課題を抱えていられない。しばらくは理沙の記憶が戻る方法を探すために全力を注ぎたかった。


「……分かった。選んでいるならいいよ」

「ごめん、迷惑かける」

「大丈夫。そうやって生きていくって、決めてるんだよ、私たち。……それで会社を辞めてどうする?」


 理沙が優しく問いかけてきた。右手には掴んだままのローストビーフがだらしなくうなだれている。俺は用意していた言葉を返す。


「しばらく慣れさせて欲しいというか、気持ちの整理をつけたい。何をするとかは決めてないけど、昔の場所を訪れたりとかになるのかな。三か月……いや、二か月くらい貰えると嬉しい。そうしたら、もう一回新しい仕事を探し始めようと思う」

「……もうそんなに決めてるとは思わなかった。言っておくけど、私は別にいつまでとか気にしないよ。納得できるまで、休んでいいから」


 そこで一度言葉を切ると、理沙はぐっと身を乗り出してきた。真剣な眼差しで俺を捉えてくる。


「……それと、私に出来ることがあれば何でも言うこと」

「ああ……もちろん」


 体をのけぞらせながら返事をした。目は逸らさなかった。

 それを確認して理沙が一度頷く。理沙はすぐに表情をころっと変えて手をパチンと叩くと、わざとらしく素っ頓狂な声をあげた。


「あっ!ということは、良って専業主夫!?いいね。いいね!よし、エプロンだ。エプロンを買おう!」


 真面目な話はこれで終わりというように明るく振舞った。俺はひとり固まったまま置いていかれていた。それでも宝石を探すように料理を眺める理沙を見ていると、こちらも心が浮き立ってくる。俺の持ち込んだ重々しい雰囲気は既になくなっていた。理沙の手元からは、いつの間にか掴んでいたローストビーフが無くなり、代わりに豚カツが取り皿に置かれている。


「おい、待て。端っこは大事に取っておいたんだ」

「働かざる者食うべからずってやつね」

「それは……明日からは洒落にならないからやめてくれ……」

「ありゃ、ごめん。ありがとう……やっぱり良だね」


 間違いなくここには理想がある。いや、理想と言うよりももっと現実的に描いていた生活がある。なのに俺は満たされていない。器だけ同じでも駄目なのだ。

 しかし、俺は分からなくなっていた。一番理想的なものしか認められないというのは、一番理想的であることを求めているだけではないのか。それは最も醜い自己満足ではないのだろうか。

 心が引き裂けそうだった。どうしようもなく昔の理沙を求めている瞬間もあれば、今の理沙をただ愛しく思う瞬間もある。

 ただ、今この気持ちを誰とも共有出来ないことだけは間違いなかった。

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