どのくらい運命

どのくらい運命 (1)

 退院後まだ一週間程度しか経っていないにも関わらず、既に新しい生活リズムを確立しはじめていた。元々夜更かしも出来たし、早起きも必要とあらば出来る適応力は持っていた。そのためか朝食と理沙の弁当のために朝早く起床するくらいは特に苦にならなかった。もっとも朝早く夜も早い生活がここ数年続いていたので、そこは今まで通りともいえる。寧ろ夜の長さが感慨深かった。

 

 憂鬱とみっともない祈りを含んだため息をつきながら卵を折り畳む。どこにも崩れた様子はない。ここまでくれば後は楽勝だ。フライパンを小刻みに動かしながら時折卵を押さえつけて形を整えれば完成。フライ返しを使って卵焼きを切り分ける。それを理沙の弁当、朝食の皿へと移し替えていく。美しい焦げのついた黄色。今日は無事成功した。

 後はご飯をよそい、味噌汁と並べ、理沙を起こせば朝のルーティンは完了する。

 理沙は別に適当にパンでいいよと言ってくれたが、弁当を作るならばそれほど負担は変わらないと朝食も作っている。弁当も冷凍食品でいいし、なんなら無ければ買うよとも言われているのだが、そこまで甘えるほど自分を許せなかった。

 元勇者であろうが今の自分は完全にヒモ。出来る限りの家事は行いたかった。それに理沙は作った料理も美味しそうに食べてくれ、弁当にも毎回感想を言ってくれる。料理はすっかり楽しみのひとつとなっていた。


 早々に趣味が出来たことは幸福のひとつだった。なぜならば一番の目的の進捗が芳しくなかったからだ。自分で機嫌をとる手段があるのは救いになる。

 理沙の記憶に関わる調査はすっかり難航していた。

 調べる手段が圧倒的に少なかった。肝心要の情報源、理沙自身からは何も聞き出せていない。そもそも何も覚えていないのだから聞き出すも何もないのだが。少しでも刺激になればと、海や山など非日常と結びつきそうな場所へ出かけることも提案したのだが「そんなに焦らなくても大丈夫だよ」と断られた。休日は理沙と過ごすことがほとんどだが、理沙は過去の話をあまりしてこなかった。

 図書館やネットで記憶や自我に関して調べもしたが、こちらもさっぱりだった。浅い情報には大したことは書かれていないし、専門的なことは難しすぎて分からない。情けないほどに退院以後の進捗はなかった。


 縋るようにひとつの可能性に期待していた。圭子ちゃんに会いたかった。

 異世界最後の日、俺たちは再び会う場所を決めて別れていた。渋谷にある大手コーヒーチェーン店、そこに毎週日曜の午後一時から四時までの間行ける者が行く約束だった。ルルはすぐには行かないだろうと答えたため、圭子ちゃんと、理沙と。今となっては恐ろしい限りだが、理沙ともそうして再会するはずだったのだ。目覚めてすぐに理沙と会えたことはこの上ない幸運であったと強く思う。

 圭子ちゃんが自分よりも何かを知っているかというと、期待をし過ぎることは出来ないが、自分ひとりの調査に限界を感じはじめた今、心の安寧を保つためにも圭子ちゃんと再会するしかないと考えることが増えていた。

 最悪の話をするのならば、誰かと会えれば何も分からなくてもいいとさえ思い始めている。自分の頭がおかしいわけではないと知る人か、悲しみを共有できる人を求めている。つまるところ、少しずつ追い詰められ、うしろ向きになっているのだった。


 状況としては一戦一敗。まだ退院後一度行っただけのため、何も判断はできない。他でもない自分自身も入院をしていたためすぐに行くことは出来なかったのだ。もしかしたら自分と同様にすぐには行けない状態なのかもしれない。

 しかし、もし理沙と同じ状態であったらと不安になる。もしそうだとしたら彼女と合流することはとても叶わない。

 誰かに会えるまでは石にかじりついてでも通い続けるつもりだった。しばらくは訪れないとは言っていたが、たとえルルが来るまでであっても待つ。しかし、彼女たちは俺を見つけてくれるだろうか。


「はあ……」


 何度目か分からないため息をつく。理沙の前では極力そういった様子を見せないようにしている分、ひとりの時に嘆息することが増えていた。


「良、どうしたの?なにか失敗した?」


 不意にぼんやりとした声が投げかけられた。声の方を向くと、理沙が目をこすりながら立っている。慌てて時計を確認すると六時五十三分。起こす時間を忘れていたわけではないようで、そっと胸をなでおろす。


「おはよう、理沙。いや記憶の手掛かりがあまり見つからないなって思っただけだよ。ごめん」


 下手に取り繕っても不自然なので、最低限のことをぼんやりと伝えた。


「おはよう。大丈夫大丈夫。私が養ってあげるから」


 理沙はまだ頭が起きていないのか、もにゃもにゃと応答した。

 そのまま子どものようにとぼとぼと鈍い足取りで朝食をとるテーブルに向かう。しかし、テーブルの様子を見ると数秒静止するなりゆったりと戻ってきた。緊張しながら理沙の言葉を待つ。

 すると理沙は小首を傾げ「何すればいい?」と、この往復の間に目が覚めてきたのか、先ほどよりも明瞭な言葉で尋ねてきた。

 もう準備出来るから座っててくれと声をかけ、急いで残りの用意をすませる。理沙はそれを言われた通りに大人しく座って見ていた。


「これからもこうしてもらおうかなー」

「どうしてもらうって?」

「朝ご飯の、ちょっと手前で起こしてもらうの。もっと温かいご飯が食べられるし、主夫が見られることに気付きました」

「いや、主夫って」

「だって良、起こすときにはいつもエプロン外しちゃってるじゃん」


 理沙が今も俺が身に着けている青とクリームのストライプ柄のエプロンを恨めしそうに見つめる。退院して次の日、理沙が仕事帰りに買ってきたものだった。


「そりゃ、まあ。いつまでも着けてるものじゃないし」

「分かってるよ。家事している時にこそ輝く。そうじゃないときに頼むと変態みたいだし。だから、主夫を眺める時間を作ろうかなーってこと」

「貴重な朝に要る時間かな、それ」

「もちろん。そういうのを贅沢って言うんだから」


 理沙はそう言うと穏やかな笑みを浮かべた。その笑顔は間違いなく自分にとって救いだった。

 しかし、まだそれを直視出来ずにいる。

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