歴史の通った (4)

 しばらく展望台から景色を見て、気付くと日がもう傾きかけていた。もう帰りはじめなければならない時間だった。理沙と来た道を引き返そうと園内下エリアへと向かう坂に対峙して戦いた。足の疲労もあってか下り坂が怖いのだ。アスファルトで舗装されているため転べば怪我は避けられないだろう。

 すると理沙がまた得意気に木刀を放って寄越した。「君に必要なものじゃ」というと「お先に」と続けて軽やかに坂を下っていく。子どもと親が遊んでいるような体力差だった。信じられない活力が離れていくのを呆然と見送る。なぜこれほどまでに差がついてしまっているのだろうか。怠惰であった元自分に腹が立った。

 先ほどまでの理沙を参考にして木刀の刃の部分を掴み杖にする。しかし下り坂で使用するには長さが足りず、かえって危なそうなことが分かった。いっそ山の斜面を滑り降りた方が安全なのかもしれない。

 公園灯が既に灯り出していた。道しるべのように光っている。俺は杖を使うことは諦め、光の跡をそろそろと辿った。


 坂もほとんど下り終え、さて理沙はどこかと探そうとした時だった。小さく悲鳴がすぐ先で聞こえた。見ると理沙が萎縮したように立ち尽くしている。視線は公園の外周にある藪を見ているようだった。

 慌てて駆け出す。藪奥は山に続いているため何が潜んでいてもおかしくはなさそうだった。野生動物の可能性も考えたが、まず頭によぎったのは公園に着く前にすれ違った不審な男だ。


「理沙、下がって」


 そう声を張り上げながら、理沙の前に走り込んだ。都合のいいことに木刀を持っている。木刀を構えながら周囲の様子を観察する。


「何があった」

「え、いや……何か山の方からがさがさって音がして。突然だからびっくりしちゃって」

「人ではなかった?」


 尋ねたときだった。左奥からガサガサと何かが茂みを駆け抜けた音がした。音はすぐに移動した。今度は右から聞こえてくる。風よりも荒々しく静寂を乱す。人の移動ではない気がした。動き方がこちらの様子を気にしているようには思えず、自由だった。木刀を握り直しながら、音のする方向を常に正面に捉えるよう動く。

 何度目かの移動を認識した後だった。茂みから何かが飛び出してきた。横へステップを踏んで理沙と飛び出してきた何かとの間に立つよう位置を取る。


 決着はすぐに着いた。


 なんてことはない、正体はただのたぬきだった。何も起きなかったのだ。

 たぬきは俺たちを認識したのか分からないが、飛び出してくるとすぐに向きを変えて山の中へと戻っていった。そして緊張が緩んだ故に寧ろ張り詰めた空気だけが残った。

 まず理沙が笑い出した。はじめはくつくつと抑えるように笑っていたが、すぐに隠さなくなった。病院で目覚めてから、一番の笑いだった。いつもニコニコと笑みを浮かべてはいるのだが、今は腹を抱えて笑っている。


「いやー……可愛かったね」

「……可愛かったな」

「はあー……可愛かった」

「分かったって」

「いやいや、可愛かった」

「勘弁してくれ」

「いやー……ふふふ」


 思えば人でないと判断した時点で警戒を緩めるべきだったのだろう。正直たぬきと認識した時点でもまだ俺は油断をしていなかった。自分でも呆れてしまう。癖が抜けていない自分にではない。俺はまだ戻ってきたと本当に思っていないのだと分かってしまったからだった。「もしかして」と構えることは、すべてを日常にはしまいとする抵抗だった。俺は見えずともまだそばに異世界があって欲しいのだ。


「可愛かったねえ……たぬき」

「絶対違うだろ」

「うん。じゃあ勇者様にお礼しなくちゃね」


 茶化して理沙が言った。とても自然で正しい笑顔だった。俺は苦々しい顔を作って応えた。

 しかし表情とは裏腹に実のところ心中ではほとんど納得があった。もう勇者とはそうあるべきなのだと思った。だから、木刀を近くの茂みに放り投げて、わざとらしく理沙に言った。


「いいよ。勇者はもう辞めたんだ」


 理沙は目をしばたたかせた。次に肩を竦めると柔和な表情で俺を見た。最近の理沙の笑い方に近かった。


「じゃあ、優しい人にお礼しなくちゃね」


 そう言うと俺が投げ捨てた木刀を拾いにいった。持ち帰るのかと思ったが、理沙は足で周りの土を雑に集めるとその中心に木刀を突き立てた。満足そうな顔をして戻ってくると「帰ろうか」と言って手を繋いできた。一瞬ためらいを感じたものの、握り返すと驚くほどしっくりきてすぐに馴染んだ。

 少し歩いて振り返ると木刀はまだ倒れておらず、神秘的な雰囲気を纏って屹立していた。

 理沙が手を動かして握り直してくる。それで俺は向き直り、後はもう振り返らずに公園を出た。

 足元には夜が這い寄っていた。すっかり寒くなったと思っていたが、夜になるとまだ気温が落ちる。理沙から伝わる熱をゆっくり感じていた。世界から切り取られた熱ではなく、芯を暖めていくような熱だった。

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