歴史の通った (3)
タクシーを降りると、すぐ目の前に小綺麗なマンションがあった。三階建て、壁は最近塗り直したのか色が美しくのっている。アイボリーを主体として、所々暗い藍色が使われていた。夕方にはまだ早い時間であったため、洗濯物を干している部屋がいくつもある。子どもの叫ぶ声が聞こえた。
目の前には公園があった。公園と言っても遊具はほとんどなく、広場とでも言うべき規模だった。小学生と思われる男の子が二人ベンチに腰掛けてゲームをしている。ろくに遊具もない公園のくせに、ボール遊びが禁止されているのだった。この流れは五年以上前から変わっていない。
理沙が料金を払い終えてタクシーから降りてくる。頭を下げて見送ると「じゃあ行こうか」と軽く声をかけてきた。すぐに背を向けエントランスへと進む。そこには何の意識も存在していなかった。洗練された動きを見て、今更ながら帰宅の意味が俺と理沙では違うのだと理解した。
「ごめん、もうちょっと待ってもらってもいい?」
追いすがるように言葉をかけた。理沙は鞄から鍵を丁度発掘したところだった。エントランスにある数段の段差のせいで、まだ昇っていない俺よりも視線が高い。見下ろすようにして俺の様子を観察すると「おっけー。じゃあちょっとだけ待ってて」と言い残し、マンションの建物内に駆け込んでいった。一瞬困惑の表情を浮かべたものの、そのあとはあっさりとした態度であったため理沙がどう解釈したかは予想がつかない。
少し待ってくれれば良かったのだが、一度理沙ひとりで家に戻ったということは辺りを少し連れまわしてくれることになりそうだ。申し訳なく思ったがエントランスの自動扉は既に閉ざされ、やり直す術もなかった。
理沙はすぐに戻ってきた。少しだけ動きやすそうな恰好に着替えている。踵の少し高かった靴をスニーカーに履き替え、上は白のコートから灰のパーカーになった。鞄も持っていなかった。
「お待たせ。ちょっと散歩しようか」
「ごめん。なんかわがまま言ってばかりだ」
理沙は俺の言葉に微笑みだけで返した。
「ちょっと公園まで行こう」
「目の前の?」
「いや、少し歩いたところ。見晴らしがいいんだよ。キャッチボールとかも出来る」
それだけ言われて歩き出した。いかにも住宅街といった土地で印象に残る建物は何もない地域だった。さすがに東京なだけあってコンビニかスーパーは時折見つけたがそれくらいだ。住宅街から公園に向かっているというのだから、駅のある栄えた方向に進んでいないためそんなものかもしれない。
十分ほど歩いただろうか。少し角度のある坂を登りはじめると上から自転車に乗った小学生の集団とすれ違った。先頭の子どものかごには無理矢理押し込まれたようにすっぽりとボールがはまっていた。
次に上下を黒のウインドブレーカーに真っ赤なロゴ入りの帽子を被った男が降りて来た。マスクをしているため顔はよく分からないが、三十代くらいだろうか。理沙とすれ違うと慌てたように振り返った。俺もすれ違いざまに横目で確認したが、どうも笑っているように見えた。もう冬といえる季節で恰好としておかしくはないが、正直かなり不審だった。この地域の治安を理沙に尋ねた。
「そんなにやばいはずじゃないけど、実は最近通り魔が出たんだよね。まだ捕まってない。さっきの人でしょ?ちょっと怖かったね」
「まじか。なんか理沙の方見てたぞ。ちょっと気を付けた方がいいかもな」
通り魔がいると聞くと、もう赤帽子の男はそうだったのではとしか思えない。だが怪しいという印象だけで交番に連れていくこともできない。
そういえば今の理沙は強いのだろうか。普通の社会人だと考えれば、質問がおかしいとなるくらいに強さなどはないだろう。共に旅をした知識がある状態ならば、判断力はあるため安心出来るのだが。住んでいるという家からは少し離れているため、二度と会わないことを期待するしかない。
額の汗を拭いながら坂を登った。吐いた息は目の前で白く染まり、空へと透けていく。
坂の途中で開けたところに出た。石碑が置いてあり公園名が彫られている。どうやら目的地に着いたようだった。
「到着!!どう?良さそうなところでしょ」
「確かに。ちょっと登ったしな。いい景色は見れそうだ」
「上に展望台があるんだよ。そこまで行こう」
「まだ登るのか……」
「もうあと少しだって」
理沙がほらほらと手招きした。奮い立たせて足を動かし理沙を追った。
坂を登りはじめてから気付いたが、既にだいぶ疲労を感じていた。この体は異世界で過ごしていた頃のものとは違うのだと身を持って思い知った。体を動かすのが仕事という生活をしていた体と、パソコンを一日扱う生活をしてきた体とでは体力差があまりにあり過ぎたのだ。一気に老け込んだような気持ちになる。
理沙が上と言っただけあって、展望台に行くためには園内でまた坂を登る必要があった。大きく湾曲して直線よりもだいぶ距離を伸ばしていたが、それでも結構な勾配がある。道として舗装されていない箇所は普通に山の急斜面だった。木が植わって鬱蒼としていることもあり、高校生くらいなら登れる子もいるだろうか。少なくとも今のブリキのおもちゃのような自分の体では無理そうだ。舗装されている方の道をゆっくりあがったはずだが、上に着くころにはすっかり息があがってしまった。
理沙は既に到着していた。余裕そうな表情で待ち構えている。なぜか得物を手にしていた。
「お疲れ様」
そう言うと手に持ったものをこちらに投げてきた。何とか掴むと質感が固い。木刀だった。
「何これ」
「伝説の剣」
「いや木刀……」
「よく分かんないけど、そこに落ちてた。良に必要だと思って」
言われてどきりとした。理沙の口調は軽く、何か意図したものがあるようには思えない。或いはそう装っているだけなのかは分からなかった。おそらくマンション前で同じことをされていたら動揺を隠せたか自信がない。今ポーカーフェイスでいられたのは、息が乱れていたというだけだった。
俺の静かな動揺を意図の分からない困惑と受け取ったのか、理沙は握りこぶしを作るとそれを前に突き出し、肘を固定したまま上下に動かすジェスチャーをする。やけに前傾姿勢だ。どうやら杖として使えと言っているらしい。
言われた通りに杖としてみると何とも体重を預けるには不安定だった。先端が面ではないため、上手く固定できない。これが竹刀であれば何とかなったようにも思うが、さすがに竹刀が落ちていることなど俺も遭遇したことはない。木刀もはじめてだったが……。
何度か試したがいい重心を見つけられなかった。
「無理みたい」
「そっか。恰好いいと思ったんだけど」
「しょうがないよ。あと少しだし大丈夫だ。行こう」
実際、展望台はすぐ目の前だった。短い螺旋階段を登ると人がひとり立てるくらいの幅で足場があった。手すりに体を預けると冷たい風が容赦なく吹き付けたが、上がり過ぎた体温を冷ますのには役に立つ。
眺望はなかなか良かった。下のエリア含めてこの公園とその周辺の自然がはっきり見えた。桜が植わっているため、春にはより美しい景色が望めるだろう。少し先に目を向ければ住宅地がただただ広がっている。今日は空気が澄んでいることもあって、随分遠くまで見渡せた。もしかしたら富士山も見えているのかもしれない。
「結構遠くまで見えるもんだな」
「ね。そうでしょ。まあ目立つような建物こそないけど、私はただ見えるだけっていうのが寧ろ落ち着くよ」
「それは何だか分かる気がする」
つい最近まで、遠くを見るという行為に心を落ち着かせる意味が含まれることは一切なかった。大体が周囲の様子を探る目的だった。だがおそらく理沙が言っているのはそういうことではないのだろう。文明への疲弊から来る感想と結論が同じというのは少し皮肉な気がした。
実を言うと、理沙が少し記憶と言うのか、感覚を取り戻しているのではと期待をしないわけではなかった。さっき理沙が伝説の剣と木刀を渡してきたことは引っかかる。だが何か尋ねるわけにもいかず、もやもやとしたものを胸に残したままだ。実際理沙は俺自身の印象からしても木刀を伝説の剣と言って振り回す童心を忘れていない女性だったから、どちらの方が可能性が高いかとも考えられない。今、伝説の剣は理沙が持っている。刃先を手で掴み、無理矢理杖として使っている。螺旋階段が登りにくそうだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます