歴史の通った (2)
「それではお大事になさってください」
「はい、ありがとうございました」
「ありがとうございました」
理沙が愛想よく返した。しばらく世話になった病院への最後の挨拶だった。俺は憮然とした表情のまま深く礼をした。
「また何かあったらいつでも来てください」と医者は理沙と俺に言った。少なくとも俺が自主的に来ることはないだろう。なぜなら俺は何もおかしくないからだ。何も起きない。
「行こうか」と言って理沙が俺の手を取る。俺は力なく握り返した。手は温かかった。異世界で過ごした最後の晩、手を引いてくれたときよりもずっと温かかった。
理沙は何も覚えていなかった。異世界での冒険のことを、何もかも。
さらに、どうも単純に忘れているだけではなかった。
理沙にはこの世界で過ごしていた記憶もあったのだ。
理沙は社会人として働いているらしい。俺もなんとIT企業に勤めているのだと聞いた。俺たちは異世界に行くこととなったあの事件をきっかけに知り合い、普通に恋愛をして今も付き合っているのだという。
それが今の理沙の記憶で、そして俺が今いる世界だった。
理沙の記憶は完全に上書き保存されているらしく、ずっとこの世界にいた人間のように振る舞った。おかげで自分の状況を把握するのに苦労はしなかったが、理沙は本当に俺の頭がおかしくなってしまったのではないかと心配していた。何が起こっているのかはまったく分からなかった。
あの魔王だ異世界だと発言した後には、理沙がこっそりと医者に相談したようで、記憶の状態を確かめるテストをさせられた。
さすがにその頃には状況が呑み込めてきており、異世界の話は冗談のつもりだったと説明をして、突飛な発言は控えて臨んだ。しかし、ここ数年の記憶がないことは誤魔化しようがなく「事故の影響で五年間程記憶が失われている」との診断を受けた。
最後、理沙に宛てて書いた手紙は意外な役に立った。後から理沙が自室にあったことに気付いて読んだらしいが、手紙では当然異世界についてしっかり触れていたのだ。俺が趣味で異世界転生の物語を書いていると思ったようだ。「最後までは読んでないから」と前置いた上で「でもそれで色々考えてたのが何か頭に残っていたのかな」と理沙の一応の納得に貢献していた。
理沙はショックが大きかったようだ。それも当然だろう。俺と理沙が出会ったのは異世界へ飛ばされるほんの少し前のことだ。五年間とはつまり、今の理沙からすれば出会って以降のことはすべて忘れているに等しい。どれほどの悲しみなのか想像することも失礼な気がした。
しかし唯一幸いなことに、俺からすれば当然なのだが、俺は理沙に関わることは覚えていた。日常的なことやどこに旅行へいったかなど、いわゆる思い出は忘れてしまっているが、理沙の人柄や好きなものなどは覚えているようだ、と医者は説明した。俺以外の誰も理由は分からなかった。「愛の力ですかね」くだらないことを言って医者は笑った。理沙は俺の記憶の話を終始不安そうに聞いていたが、その時だけは照れたように笑っていた。俺もなんとか笑えた。
それは、なぜか異世界での記憶を忘れてしまっている理沙には幾分か救いになったようだ。だから、笑えたのだと思う。
俺も同様にショックを受けずにはいられなかった。この五年の記憶を最愛の相手が覚えていないというのは、俺もまったく同じなのだ。俺の場合は、この世界でも理沙と付き合っていたという事実が救いだった。
可能性として思いつくことはいくつかあった。
大きく分ければ、理沙の記憶の更新が上手く行えなかったか、何らかのトラブルで戻ってこれなかったとなる。しかしどれも人間の域を超えた事象だ。原因の特定が出来るとは到底思えなかった。治し方も当然分からない。
それとなく本当に覚えていないのか、もしくは触発されて思い出したりしないものか、何度も試そうとはした。しかし、理沙の表情が曇るばかりで状況は変わらなかった。俺の立場が悪くなるだけだった。確かに気持ちは分かる。俺も同じ経験をしていなければ、事故から目を覚まして以降異世界の話をしだす奴には同様の感想を抱くと思う。
疑問は尽きない。落胆のぶつけ先も分からない。しかし、気が狂ったと思われないために、ただでさえショックを受けている理沙を傷つけてしまわないために、現状出来ることは何もなかった。
それに、何も理沙が消えてしまったわけではない。俺だってこうして事故という憂き目に遭っているのだから、もしかすると世界を移るとは色々問題のある手段なのかもしれなかった。健康に生きていられるだけで随分マシなことなのかもしれない。
兎にも角にも、俺は記憶の他には特に問題がないということで今日無事退院となった。理沙が有給を取り、こうして付き添ってくれている。設備がきれいなことくらいしか印象に残らなかった病院を出るとロータリーにタクシーが停まっていた。理沙が呼んだのだ。問題ないから電車で帰ろうという俺に対して「こんな日くらい」と理沙が譲らなかった。
タクシーに乗り込むと、理沙が住所を運転手に告げる。区の名前までは分かったが、先の地名は知らないところだった。
「どう?聞き覚えはない?」
理沙が席に少し浅く腰掛けながら話しかけてきた。「ごめん」と答えると、理沙は「そっかそっか。まあそうだよね。引っ越したの一年くらい前だから」と言った。
「びっくりすると思うよ。感動するかもね」
続けて付け足すと、いたずらっぽく笑いシートベルトを締めた。運転手が車を出す。黒い獣のようにのそのそと這い出す。俺は振り落とされないように座席を強く掴んだ。
引っ越しをしたということは既に理沙から聞いていた。以前の物件は結構気に入っていたので、そこを手放したことにまず驚いた。
しかし、もっと驚いたことに現在俺は理沙と同棲しているらしいのだ。なるほど、だから引っ越したのかと納得は出来た。それと同時に、以前の俺はもう同棲をするくらいに理沙との将来を真剣に考えていたのだと思い知った。
そういえば以前の俺、という気味の悪い存在を意識し出したのはいつだっただろうか。この俺は確かに五年前は俺だったが、この五年間は俺ではなかった。いや正しくは両方俺なのだが、認めることは出来なかった。どうも記憶を失くしている理沙が俺のことを語るとき「それは俺じゃない」と感じてしまっている。
移動中、理沙はこの五年間で変わったことをずっと話していた。渋谷に新しいビルが出来たとか、駅が新しくなっただとか、そんな内容だった。
理沙の話を聞いている限りでは、五年でそこまで変化するものなのかと感心したが、車窓からの景色では特段何か変わったようには見えない。俺はちゃんとこの街の景色を見ていなかったのかもしれない。見えないところで変わっているのかもしれない。きっと俺が気付いていないだけで、次の変化ももうはじまっているのだろう。
しばらくして、理沙が思い出話をしてこないことに気付いた。話す五年間の内容は世の中のことばかりだった。俺を気遣ってくれているのだろうか。感謝と同時に、お前だって経験していないのにどうして気を遣っているんだと、理不尽な苛立ちが湧いてきて、自己嫌悪を覚える。
楽しそうに話してくれる理沙と目を合わせづらくなり、自然を装い窓の外を見た。信号を待つタクシーの横を、マネキンのような顔をした若い女の子たちが薄い笑みを浮かべながら通り過ぎていった。
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