歴史の通った

歴史の通った (1)

 起床は普通とは言い難かった。

 白が薄く汚れた天井に、薬っぽい臭いが鼻につく。部屋が思っていたよりも広い。大学時代暮らした部屋が六畳だったが、それよりは明らかに広かった。つまり、昔住んでいた家での起床とはならなかったようだ。

 部屋の広さよりも気になるのは内装だった。いわゆる家具というものが視界に入ってこない。それだけでは眠った城の部屋と違いはないが、明らかに違うところがあった。壁の色が一面白いのだ。

 思いついたことがあって視線を下に向けると、寝具もまたすべて白く、自身は薄い青緑色の服を着ていた。

 

「……病院?」


 五年も違う世界で旅を続けていたとはいえ、こっちの自分は普通に生活していたと聞いていた。普通の部屋で普通のベッドで普通に起きるものだと思っていたため面食らってしまう。


「月島さん!?目が覚めたんですか!?」

 

 突然真横から声がした。視界から外れたところに誰かいたらしい。興奮した様子で何か喋り続けている。だがはじめの言葉以降、何を言っているのか不明瞭で言語として理解出来なかった。声に驚いて突然首を向けたのがよくなかったのかもしれない。急に何やら頭に重い石を乗せられたような鈍さがあった。限界はすぐにきた。

 「痛い。なんだ痛いぞ」情けなく譫言を垂れ流すと、たまらずそのまま気を失ってしまった。


 再び目を覚ますと、すっかり部屋が暗くなっていた。どれくらい気を失っていたのかまったく分からない。一度目に起きたときは果たして日中だったのか、電気がついていただけの夜中なのか確認していなかった。 

 もう天井の色は分からなかったが、薬っぽい臭いが相変わらずしており、先ほどと同じ場所にいるのだと分かった。自分が入院をしたことは無かったが、お見舞いに訪れたことなら何度かある。似たような恰好をする施設はあるのかもしれないが、ひとまずは病院にいると想定することにした。

 確かに生きていればそういう可能性がないわけではない。しかし随分間の悪い時に戻ってきてしまったものだと思った。

 病院にいるのであれば、気になってくるのは入院の理由だ。一番いいのはただの風邪。しかしただの風邪で入院するとはさすがに考えにくい。重い病を患っていたり、余命幾ばくもなかったりするのではという不安がふと頭をよぎった。昨日ルルが死んでいたら戻れないのかと言っていたことを思い出す。死んでいたなら戻す身体がないから無理だろうと話したが、死ぬ直前の身体に戻ることは出来る気がする……。

 不吉な想像をすると途端にその恐怖で思考が満たされていった。とにかく情報が欲しかった。さっきの声の主は何か知っているかもしれない。

 そわそわと辺りを見回すとベッドの脇でパイプ椅子に座ったまま舟を漕いでいる人物がいることに気が付いた。

 黒っぽい色のシャツにズボン、靴はスニーカーと動きやすそうな恰好だった。美しく長い髪を後ろでひとつにまとめてポニーテールにしている。健康的で、少女のような可愛らしさのどこか残る女性だった。薄く入った月明かりをベールのように纏っている。


「理沙」


 その人物を認識すると無意識に名前を呼んでいた。俯いた顔は少し幼くも見えたが、見間違うはずがない。こんなところで、こんなにも早く会えるとは思いもしなかった。

 理沙は肩をびくっと震わせると、きょろきょろと辺りを見渡す。やがて、自分がどこにいるのか思い出したのか小さく声を発すると、椅子から立ち上がり俺の横たわるベッドのそばまでしずしずと寄ってきた。


「良?ひょっとして起きたの?」

「理沙、本当に理沙だ……よかった……また会えて。約束はしてたけど、やっぱり会えると安心する」

「こっちこそ、安心したよ。ひょっとして目を覚まさないんじゃないかって。お医者さんは、もう今は寝てるだけだからそのうち起きるよなんて言ったけど……安心した」


 喜色を湛えた声はやはり理沙のものだった。本当に安心したのだろう。長く息を吐き出すと、背骨が溶けたかのように肩の力を抜いた。しかしそれだけでは安心を表現しきれなかったようで「良かった、良かった」としきりに言いながら俺の頭をそっと撫ではじめた。

 怖々とした撫で方だった。触れるか触れないか程度の圧力と感覚を保ったまま、何度も頭上を往復する。はじめはどうやら心配をかけたようだからと大人しくしていたものの、一向に終わる気配がなかった。そこで首を反らせて逃れようとすると「ダメ、無理に動かさないの」と鋭い声で制された。すぐに自分が患者であることを思い出し、もしかして安静を必要とするのかもしれないと抵抗は断念した。またしばらくされるがままに撫でられていると「いつもこんな風に触らせてくれるといいんだけどねえ」と楽しそうに言った。

 これはこれで悪い状況ではなかったが、今は自分の状態を憂う気持ちの方が勝った。顔の向きはそのまま気になっていることを尋ねる。


「ところでさ、理沙。俺はどうして入院なんかしてるんだ?」

「え?」

 

 理沙が虚を突かれたように呟いた。撫でていた手をぱっと離した。


「覚えてない?車に撥ねられたこと」


 ぎこちない口調で尋ねてきた。驚きで変に固まったままの表情が、忘れているなど想像もしていなかったと雄弁に示している。


「車に撥ねられた……?」


 理沙が神妙な面持ちでうなずいた。 

 それが入院の理由らしい。言葉だけで判断するならば、そこそこ大きい事故だったのではないだろうか。手足を少し動かしてみるが違和感は特にない。ベッドの上という状況で思うままに体は動かせないが、取り立てて大きい怪我をしているようには思えなかった。麻酔が効いているのだろうか。

 交通事故とは大変なことであるが、肯定的に捉えられる点もあった。ただ事故ならば、命に関わる病気で入院という線は消えたことになるのだ。詳しい怪我の状態はまだ分からないが、ひとまず手足が動かせる程度ではある。最悪の状態というほどではなさそうだ。

 それにしても、覚えていない?と言われても、覚えているはずがない。俺たちはつい今朝までの行動には責任のない人間である。それは理沙も分かっているはずだ。もしかして戻った瞬間に撥ねられたのだろうか。その時理沙も一緒にいたということならあり得るのかもしれない。しかしそれではあまりにも天使の仕事が雑ということになる。やはりあり得ないとは思うが、可能性として排除し切れない程度の不信はあるのが困ったものだ。


 理沙は一度慌てた様子はあったものの、俺が首を捻っている間には落ち着いていた。しかし、安堵一色であった態度はもう見えず、不安を感じていることがはっきりと見て取れた。手は膝の上できつく握られている。


「そっか、覚えてないか。実はお医者さんも言ってたんだよね。『奇跡的に残るような外傷はないのですが、もしかしたら脳などに何か影響があるかもしれないので注意してください』ってさ。そういえば前後の記憶がないこともあるとか聞いたなあ。……どう?あんまり覚えてない?他にも頭が痛いとかそういうのは大丈夫?」


 やたら調子のちぐはぐな声音だった。努めて明るい声を出そうとしていたが上滑りしていた。

 その様子を見て、理沙とは反対に俺はすっかり安心を覚えていた。理沙の優しさはどんなところでも変わらない、そう思うといつの間にか頬がほころんでいた。事故の自覚などまったく無かったのだ。

 脈絡なく笑みを浮かべた俺を、理沙が不思議そうに見つめてくる。


「大丈夫だよ、理沙。確かに事故のことは覚えてないけど、それ以外のことは全部覚えているし、体調も悪くない。心配かけたね」

「本当に?」

「本当本当。いやそれにしても、戻った瞬間に事故にあったのかな。天使って、どうしてこう所々仕事が雑なのかね。こっちは寝てるんだから、寝てる同士で上手いことやれなかったのか」

「……天使?うーん、これは寝ぼけてるのかな?」


 困ったように理沙が笑った。まだ警戒はしているようだが、冗談を言える程度にはまた安心してくれたようだ。俺たちにしか伝わらない冗談は、完全に二人だけの秘密で、スリルがあり、わくわくした。異世界での出来事はもう過去になったのか、まだなっていないのか俺自身分かってはいないが、理沙とこうして大事に宝物を見せ合うようにするのは悪くないことのように思った。


「いやいや、寝ぼけてないけど。異世界に行って、魔王を倒して、ついに戻ってきた勇者に失礼じゃないか」

「えーっと……冗談?」

「まったく、本当に冗談みたいだよな」


 そう言ってお互いに笑う……かと思ったが、理沙はいっそう深刻そうにこちらの顔を覗き込んでいた。下唇を噛んだ口許は苦々しく歪んでいる。それは真意を見極めようとする人の行動で、ようやく俺は自分が何か思い違いをしていることに気が付いた。

 だが何もかも手遅れだった。理沙はおそるおそるといった様子で切り出した。


「魔王……?異世界……?大丈夫?お医者さん呼ぶ?」

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