愛の話はしていない (7)

「駄目だ、駄目。また格好いい。これ以上はよしてくれよ。……目標があまりに高くなり過ぎる」

「うん? ひょっとして考えがまとまった感じかな」

「まあ、ね……おかげさまで。自分が向き合うべきものは定まったと思う」


 理沙は一瞬目を大きく開くと、安堵の笑みを浮かべた。

 正直に言えば、未練や後悔といったものがなくなったということではない。安直な物言いをすれば、前に進む勇気が湧いてきたのだ。

 ……ああ、きっと。この物事を理想に寄って捉えようとする姿勢こそが俺を蝕むものであるのかもしれない。

 正解や正義、理想、それらをたよりに世界を組み立てること。それ自体が間違っているとは思わないが、それは未熟な自身が何とか理解しようと自分の分かる範疇で似せて作っただけの世界に過ぎない。利用できても、崇高に扱うべきではなかったのだ。


 そんな風に思えているのは、間違いなく。


「今回のことは本当に理沙じゃなかったらどうなっていたか空恐ろしいよ」


 思わず言うと、理沙は視線を宙に泳がせた。 


「まあその点に関しては当然と言えば当然であり、まったく申し訳ないという感じですが……」きまりが悪そうに、頬を指でかいて理沙は笑った。「何も言わずに色々決めたのは私だからねえ。理由はあったにせよ、良や圭子に迷惑をかけてしまったのは私のせいだから……」

「理沙は悪くないだろう。……まあこういう取り返しのつかない選択の時には相談して欲しいとは、今回の件で思ったけど。でもそれも俺だってちゃんと言わなかったからさ。俺はずっと理沙のそばにいたいと思っている。そういう一番素直な願いを口にしていなかったから」

「まあ……だから、だよね。うん……あー……いや、これからは大丈夫だと思ってくれていいんだけど」


 理沙が気後れしているように言った。


「私は、異世界での私を違う自分だと思わないんだよね。もちろん、良も。だから、こういう手段を取ったんだろうなって分かるの。これは手紙に書いてあったわけじゃないけど、分かるんだよね」


 そこで一旦言葉を切ると、理沙は俺の目をじっと見つめた。そして宝物を見せるような気恥ずかしさをもって微笑むと続けて言った。


「私はね、私だったら絶対大丈夫だと考えていたと思うんだよ。だって世界中で……いや宇宙中? あれ? 異世界って概念ではどこに括るの? ……まあいいか。誰よりも良を幸せにできるのは私だって自信があるから。だから今回のことを私のおかげと思われるのは、何だか自作自演のような……」


 自作自演。なるほど。理沙とリサ。異世界に行った俺と行っていない俺。それを同じと見なせるなら、そう言えなくもない気はする。だが理沙がそれを後ろめたく思っているなら、それは自信をもって否定できる。


「気にしないでくれ。俺はこの結果を……間違いじゃないと思っているから。だからやっぱり、こうなることを期待した理沙のおかげだと思うよ」


 少し迷ったように視線を逸らしたが、ありがとうと理沙は小さくお礼を言った。


「じゃあもう大丈夫? 思い悩むことはもうない?」


 理沙の問いに少し考えてゆるゆるとかぶりを振る。それを見て、理沙が優しく微笑んで首を傾げた。

 俺は慌てて弁解のために笑みを浮かべ、手を振り否定する。


「ごめん、違うんだ。やっぱり自分が悪くないとは思えない、というだけ。でも俺は間違いなく君が好きだ。それがどういうことなのかも今は少し分かる気がする。……だからもう大丈夫。ありがとう、理沙」


 思いついたことがあって、こう言った方がいいのかなと前置きして切り出す。


「約束するよ。誰よりも理沙のことを幸せにする。世界で一番幸せにする」


 理沙はちりちりと目の奥が焼けるような視線を俺に向けた。

 何か言おうとして口が動くのを、唇を噛むことで抑えている。

 理沙が視線を少し落とした。しばらく大げさな呼吸をしていた。


 やがてふっと息を吐くような笑い声を漏らした。

 それから前に倒れ込むようにしてまた笑うと、理沙は勢いよく顔を上げた。


「おーあぶない、あぶない。説得出来てよかったよ。私もうアラサーに足を踏み入れているんだから。四年付き合った彼氏に、異世界転生が理由で振られるとか勘弁してほしいもの」


 茶化すようにしておどけている。

 まったくその通りだと笑って返した。


 笑い声が途切れると、すぐに元々音など存在していなかったかのように静寂が訪れる。夜の帳を身近に感じていた。見上げれば星がわずかに見えはじめていた。展望台のある上部エリアと違って夜景といったものは見えない。地上から陽炎のように明かりが立ち昇り、街の息吹が夜空に降り注いでいた。


 しばらくそのまま座っていた。

 手を繋ぎ、必要もないのに強く握ったりした。


 何も意味のない時間。ただ、幸せだった。

 くすぐったい時が過ぎて、どちらからともなく寒いねと言った。

 じゃあ鍋が美味しいと答えると、顔を見合わせてふたりして笑った。


 やがて頭に何も浮かばなくなる頃。


 理沙が思い出したようにおかえりと言った。

 当たり前のようにただいまと言った。


 ふたりで笑った。


 自然と目が合う。

 名前を呼ぶ。

 一度きりのキスをした。

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