どのくらい運命 (6)

 圭子ちゃんが勢いよく残っていた分を飲み干す。そしてグラスを置くと、改めて真剣な目で俺を見つめてきた。


「だけど、ひとつだけいいですか。わたしは期限は決めた方がいいと思うんです」

「期限?」

「どこか期限を決めて、それ以降はもうお姉ちゃんの記憶が戻ることは期待しない。何も言わず受け入れるのか、本当のことを話したりするのかは良さん次第ですが。ずるずるとしているのは誰にとってもよくないことだと思うんです」


 声音は優しいままだったが、そこに圭子ちゃんの強い意思があることを感じた。命令でこそなかったが、曖昧なままでいることは許さないという立場をはっきりと表明している。

 自分で何度も考えたが覚悟の出来ないことだった。記憶が戻るきっかけとなる刺激があったとして、それがいつ作用するのかは分からない。ふとした匂いや会話で戻ることもあると聞く。


「俺はそうは思わない。もちろん今みたいに積極的にいることはいつか止めなきゃいけないと思っている。だけど、まったくあり得ないとしてしまう必要はないはずだ」


 圭子ちゃんはゆっくりとかぶりを振った。そして諭すように言葉を返した。


「良さん。わたしが良さんの立場でも、そう言うと思います。だけど、もし良さんがわたしの立場だったら、良さんは絶対にわたしと同じことを言うはずです。お願いです。わたしを恨んでくれて構いませんから、決めてください」


 圭子ちゃんは言い終えると膝の上に手を置き、頭を下げた。そして深々と下げたまま動かない。そんなお願いの仕方をされるとは思っておらず、俺はすっかり慌ててしまった。金髪の若い女の子が、仰々しく頭を下げているというのは人目を引く。きょろきょろと周囲を見回すと、隣の席の客が何事かといった表情でこちらの様子をこっそり窺っている。他からも視線を感じる気がする。


「ごめん、ひとまず頭を上げてくれ」

「決めてくれるまで上げません」

「いや、これそういう場面なのか?」

「……」

「頼むよ。大事なことなんだ。納得して決めたい」

「そんなことは無理なんです。分かるでしょう」

「それでも、圭子ちゃんが責任を負う必要はないことだ」

「そんなことはありません」

「俺の問題だ」

「そんなことはないんです」


 静かな決意を持って圭子ちゃんが言った。肩に力が入り小さく震えている。優しい嘘は、孤独に押しつぶされそうになっているようにも見えた。


「……もし理沙の記憶がしばらく戻らなかったとして、多分諦める方向に考えはじめるとは思うんだ。圭子ちゃんと再会する直前もそんな感じだった。そうでないと心が保てなかったからね。それと同じでは駄目かな? 俺は圭子ちゃんの言っている事と一緒なんじゃないかと思うんだけど」

「それは……良さんが覚悟を決めるということですか?」

「……分かった。分かったよ。そうする。でも、これは俺の意思だ。圭子ちゃんには感謝こそすれ、恨むなんてことはない」

「……ありがとうございます」


 果たして顔を上げた圭子ちゃんはいくらかすまなさそうな顔をしていた。機嫌を窺うようにこちらを見ている。俺は肺の空気をすべて絞り出すように吐き出すと意を決して口を開く。


「俺からもひとつお願いがあるんだ」

「お願い……? 何でしょうか?」

「理沙と俺と、一緒に暮らして欲しい。正直、もう手詰まりなんだ。それ以外に出来ることが分からない」


 圭子ちゃんはお願いと聞いて怪訝そうな表情をしていたが、一緒に暮らすと聞くと目を大きく開いてしばたたかせた。


「良さんのやりたいことは分かりますけど……。でも、いや、ちょっと難しいんじゃないですかね。さすがに同棲中のカップルの家に別の女がいるのは……」

「そこは俺が説得するよ。それに妹なんだから大丈夫だろう。アメリカから帰国して、家を探すまでの間ずっとひとりにするのは心配だ、なんて理由なら十分じゃないかな」

「……」


 圭子ちゃんは黙りこくって考えている。だが、迷っているというよりは決心がつかないといった様子だ。圭子ちゃんの提案が「お互いが逆の立場なら必ずそうする」ことを理由に成り立っているのならこの提案も同じ性質を持っているはずだ。頷いてくれるのではないだろうか。


「……分かりました。そうですね、出来るすべてのことをやり切るべきですよね」


 ややあって、不承不承ではあったが同意を示した。


「なら、家にお邪魔させていただくのは、一週間後を目安にでいいでしょうか。その間に良さんに話を通してもらって、問題なければという感じで」

「大丈夫。俺はそれで問題ない」


 それで話はまとまったということで、その場は解散となった。帰り際、出来れば髪の色を戻しておいて欲しいと圭子ちゃんに頼むと「お姉ちゃんに一度見せたかったんですけど」と言ったが、最後には承諾してくれた。はじめの印象はひとつの勝負所だ。大事にいきたい。


 家路を辿る足がいつもより重かった。理沙を説得出来るか気がかりなのではなかった。終わりのある未来へ向かいはじめたことを自覚しているのだった。

 決して後悔はしていない。圭子ちゃんには感謝をしている。元々似たような選択をするはずだったのだ。しかし一歩に意味を持たせるのに早すぎることはない。どうとでも口約束が出来てしまうにも関わらず、憎まれ役を買って出てくれた圭子ちゃんには頭が上がらない。本当に俺と理沙のことを考えてくれているのだろう。


 次第にマンションが見えてきた。理沙は仕事があるため、まだ帰っていないはずだった。今日は時間に余裕があるため、手間のかかる料理を作ろうかと考えている。しかし、それで今日圭子ちゃんのことを頼むとすると、下心があって作ったように思われてしまうだろうか。

 本当に思うことはないだろうが、理沙はからかってくるかもしれない。そうしたら何と答えようか。いっそよりわざとらしくケーキを買ってきて出したら、理沙は笑ってくれるだろうか。さすがにケーキの用意は無いので理沙の好きなケーキ屋まで行くとすると……そこまで時間に余裕はないかもしれない。

 声を出して気合いを入れると、力強く足を踏み出した。

 我ながら単純である。もう、足取りは軽かった。

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