どのくらい運命 (7)

 晩御飯を食べ終えて、食器を流しに持っていったときだった。理沙から話題を振ってきた。


「圭子さ、結局どうだって?」


 視線はテレビに向いたまま宙に言葉を投げかけているようだった。椅子に浅く腰をかけ、少し猫背気味。両手はテーブルの上でマグカップを包み込んでいる。


「会いたいってさ」


 短くそれだけ答え、洗い物をはじめた。理沙は「そっか」とだけ答えた。それ以上は何も尋ねてこない。俺が説明するのを待っているのかもしれなかった。

 意図せず沈黙が生まれる。なまじ自分の中で話の流れを用意し過ぎていたせいだ。何もおかしなことを話すつもりはなく、圭子ちゃんと住むことを同時に提案したかっただけなのだが、すっかりタイミングを失ってしまったようだった。

 蛇口をいつもより強く捻った。リビングから聞こえてくるテレビの音をラジオのように聞きながら皿洗いをする。二人分の茶碗、皿、箸、どれも柄は一緒だが色違いだった。コップだけは違い、理沙は赤い花弁がいくつも散ったガラスのコップだったが、俺は白いシリコンのものだった。フライパンはかつてはテフロン加工されていたのだろうが、今ではあまり効果を発揮していない。


 最後にフライパンを洗い終えると、冷蔵庫からケーキの入った箱を取り出した。切り替えていっそはじめから想定通りやるしかない。足音を盗みリビングに向かい、理沙の目の前にそっと箱を置いた。理沙が気付くよりも先に滑らかな動作で膝と額を床につけた。


「すみません、お願いがあるんですが」

「……」


 理沙からの返答はなかったが、傍でごそごそと動く気配がして、すぐにシールを剥がす音、箱が開封される音が聞こえた。


「いいでしょう。続けて」


 尊大な声が上から聞こえた。顔を上げ話そうとすると「それは許してないんだけど」と叱責の声が飛ぶ。頭を慌てて下げると「嘘よ、嘘」と言ってくつくつと忍び笑いを漏らした。ゆっくりと顔を上げて一息つく。理沙は茶目っ気のある顔で俺とケーキを交互に見やっていた。


「圭子ちゃんのことなんだけど『会いたい』と圭子ちゃんから聞きました。そして実は、会うだけじゃなくてしばらく一緒に住まわせることは出来ないかなと思っているんだけど……」


 そう切り出すと、理沙は目を大きくした。そのまま小さく頷いて表情だけで話の続きを促してくる。


「実はアメリカから戻って家もなくて、今はずっとビジネスホテルに泊まっているらしいんだ。だから家を探すとか、そういうのが決まるまで泊めてあげたいなあと思って……どうでしょう?」


 唐突にするお願いではないという自覚も、おそらく頷いてくれるだろうという不遜な気持ちもあった。断りたい可能性もきちんと考慮に入れているとアピールしているに過ぎないと思われても仕方がなかった。だが、これ以外の方法は思いつかなかったのだ。

 すると理沙は耐えきれないといった様子で笑い出した。ひとしきり笑ったあと、長く息を吐き出し、また笑みを浮かべた。


「もちろん良いに決まってるじゃん! そんな申し訳なさそうな顔して来ないでよ。何事かと思うじゃない」


 朗らかな声で、柔らかく窘めるようにそう言った。理沙に拒絶の意思がないことを見て取り、そっと胸をなでおろす。


「家が無いってことなら、もうすぐにでも来れた方がいいのかな?」

「一応、一週間後くらいかなという話をしたけど」

「ふーん。まあ私は夜にしかいられないけど、良が案内とかしてくれるなら、私としてはいつ来てもらっても大丈夫よ」


 何も迷惑とも思っていない様子で理沙は言った。断られることはないだろうとは思っていたが、あまりにもすんなりと受け入れてくれたことが少し意外だった。

 一緒に暮らす人がひとり増えるとなればそれなりに準備もあるはずだ。それに今の理沙にとって圭子ちゃんは仲違いをしたまま五年も音信不通の相手となる。

 しかし考えてみればあの理沙が会えずにいて、ただそれだけで時を止めてしまっているとも確かに思えない。今の理沙として、覚悟や考えているところがあるのかもしれない。


 理沙はもう目を細めて嬉しそうにケーキを食べている。記憶を失ってからの理沙は前よりも美味しそうにものを食べるようになった。時にはサクラでも引き受けているのかと思うくらいにオーバーなリアクションをとる。旅をしていた頃も決して表情に乏しくはなかったが、ここまでではなかった。

 正直に言って少し苦手な表情だ。自分の知らない理沙だった。そしてあまりにも平和的だった。

 少し大袈裟過ぎやしないかと、理沙に聞いてみたことがある。「その方が美味しいし、嬉しくなるから」と言っていた。

 理沙がいつから、どうして、そう考えるようになったのかは知らない。理沙の記憶にある自分はどう思っていたのだろうと、ぼんやり考えた。


「理沙」

「なに?」

「昔のことをさ、教えてもらえないかな」


 そう言うと、理沙は目を丸くして驚いていた。自分でも驚いていた。過去の話を頑なに拒絶する気持ちが今朝までは間違いなくあったからだ。


「聞いてくれるんだ? ちょっとだけ不思議だったんだよね。でも何か気持ちの整理とかがあるのかなって。分からないけど、前向きな変化なのかな。それだったら嬉しいんだけど」


 理沙がケーキにフォークをさし、やや大きいかけらを口に入れた。それで理沙はケーキを食べ終えた。なんとなくその様子を見守り、理沙が飲み込むのを待った。


「前向きなのかはちょっと分からないけど、でも大切なことだと思ってる」

「どうだろうなあ……だって、まずは大切にしてもらわなきゃだからね」


 理沙は寂しそうに微笑みながらそう言った。そして、俺が何か答えるよりも前に言葉を継いだ。


「だから、話すから」理沙は一瞬真面目な表情をしてそう言って、すぐに相好を崩した。「でも何かつらくなったりとかしたら、すぐに言ってね。私も注意するけど」


 理沙は遠い昔のことを思い出すように、理沙の記憶の五年間を俺に話しはじめた。それは驚くほど俺と理沙の話だった。きっとあの時異世界に行くことがなければ、確かにそうなっていたかもしれないと思った。中には舞台が違うだけでほとんど自分の記憶と同じような話もあった。


「ずっとそうなの。変わらないね」


 理沙は何度もそう言った。


「知らないみたいだから特別に教えてあげる。私、実はあなたのことが好きなの」


 話す理沙の目はきらきらとして、時折笑いながら涙をこぼした。もうずっとそんなことは無かったのだが、理沙は俺の腕をとって話し続けた。夜が深くなるにつれて気温が落ちると、原始的な方法で暖を取った。

 気が付くとすっかり遅い時刻になっていた。闇は明かりだけでなく音もすべて吸い込んでしまいそうに深い。しんと静まった部屋で、俺たちは互いの居場所を探るように言葉を交わした。あっという間の時間だった。理沙は欠伸といって譲らない涙を寝間着の袖で拭っている。


「ねえ、圭子のこと、もちろん大歓迎だけどさ、やっぱり日曜にしても大丈夫かな?」


 最後、理沙が申し訳なさそうに相談してきた。


「問題ないはずだけど。なにか土曜にあった?」


 聞くと理沙は「うん」と答え、さっきよりもなお言い出しづらそうに言った。


「ねえ、良。デートしよう?」

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