君の背 (2)

 港に来てまず感じたことは風の強さだった。冷たい風が潮の匂いを纏い容赦なく吹き付ける。思わず襟を掻き合わせた。理沙は少し顔をしかめるだけで平気そうにしている。

 それも当然で彼我の装備には大きく差がある。家を出る時には理沙のトレンチコートを見て、寒さに弱いと大変だと呑気に思っていた。俺も確かに肌寒いと感じたが、特に理由もなく室内だと思い込んで対策を講じなかった。秋用の防寒力皆無の長袖が抗いもせず風にはためく。


「寒そうだね」

「間違いなく寒いよ」

「言っておくけど、わざとじゃないよ。私だってこの時期に来るのは初めてなんだから」


 恨まれるのは心外だといった様子で理沙は弁明した。

 恨んではいなかった。俺の準備不足である。ただ目的地が外であると忠告があったら嬉しかったとは少し思った。


「分かってる、分かってる。それよりも温かいものくらい何か売ってるだろう。早く行こう」

「それは売ってるだろうけど、ちょっと待って」


 娯楽よりも生存本能により歩を進めようとするのを理沙が妨げた。

 どうしたのかと振り向こうとすると首周りに何かがかけられた。マフラーだった。赤と黒が滲むように混ざったチェック模様をしている。


「私は準備の良い女なの」


 理沙が得意そうに言った。自分のためだけにこれを用意していたとは少し考えにくいから、俺へ貸すこともあるかもしれないと持ってきていたのだろう。あのコートのうえ、さらにマフラーを着用する可能性があると考えていたならば、さすがに俺の軽装を咎めたはず。

 受け取ったものの久しくマフラーを使用していなかったため、巻き方が分からなかった。とりあえずぐるぐると雑に巻く。息苦しい。


「個性的だね」理沙が俺を見てからかうように言った。「こうするともっと恰好いいよ」


 と理沙が一から巻き直した。何らかの完成をイメージして作られた結び方に生まれ変わる。お洒落だ。そして動きやすくなった。


「……助かった。ありがとう」

「そう呑み込んでくれると嬉しいわ。じゃあ、行こう。前来た時は、伊勢海老で出汁をとってる味噌汁があったよ」


 理沙に手を引かれて朝市の会場を回った。フードコートとフリーマーケットが合わさったようなものらしく、食事用の簡易テーブルが設けられた区画で半分、飲食や雑貨が売られた区画で半分に分かれている。売られているものは地元色が強く、雑貨は手作りのアクセサリーなど。飲食物も地元の店が出店していたり、名産品が使われている。ごま油や干物など持ち帰りの出来るものもそこそこ置いていた。あまりスーパーでは見かけないものも多く、見て回るだけで新鮮な驚きがある。


「有名なのは伊勢海老だね。しっかりしたのは高いけど、出汁をとったくらいなら庶民にも手が届くの。あとはたこ飯が有名らしいわ。でも、良は前あまり好きじゃないって言ってた。お米がべちょべちょ系だって」


 理沙のアドバイスを聞きながら商品を購入していった。伊勢海老出汁の味噌汁、メンチカツ、好きではないらしいと言われたがたこ飯。

 たこ飯を購入した後には「そういえば、とりあえず名物なら食べておくタイプだったね」と理沙に笑われてしまった。

 会場を一巡して、飲食スペースが設けられている区画へと移動した。


「あ。どうしよう」


 先を歩いていた理沙が急に立ち止まった。二人分の味噌汁をお盆に載せて運んでいた俺も遅れて顔を上げる。空いているテーブルがひとつもなかった。


「失敗しちゃったな」


 理沙が自分を責めるように呟いた。確かに、このスタイルでは想定し得る状況だった。ひとりが席の確保をして、ひとりが購入しに行く方が効率は良かったのかもしれない。だが、効率を求めていたわけではないし、一緒に回ったことで間違いなく楽しい時間を過ごせたと思う。

 どうしたものかと会場を観察していると、相席をすればいいのではと思い至った。会場に置かれたテーブルは四人席か六人席しか存在しない。当然、座っているグループの人数によっては席が余る。こちらは二人、いくらでも入れる余地はあった。


「俺は相席でもいいけど、理沙はどう?」


 提案すると、困惑した返事が返ってきた。


「え? 相席? うん……いいよ、私も。良がいいのなら」


 歯切れの悪い回答だったが、嫌というわけではなさそうだ。

 近くを確認すると、丁度四人席に二人の老夫婦が座っているテーブルがあった。二人とも穏やかそうだった。ここならば、仮に相席が嫌だったのだとしてもそれほど悪くはないだろう。


「すみません、こちら二人相席させていただいてもよいでしょうか」


 声をかけると、婦人の方がゆっくりとこちらを向きにこりと微笑んだ。


「まあまあ! もちろん。どうぞ。ごめんなさいね。こんなにいるのにのんびりしちゃって」

「いえいえ。すみません、ありがとうございます」


 気持ち端の方に椅子を寄せ、席に着いた。理沙も「ありがとうございます」と言って同じようにした。


「おふたりは恋人かしら。若い人は珍しいわね」


 袋から購入したものを取り出していると、婦人から話しかけられた。


「はい、そうです。今日は東京から来ているんです」

「そうなの、東京。いいわね。ここは意外と寒いでしょう。お昼になるとね、そんなこともないんだけど。朝は寒いの」

「そうですね、思ったよりも寒くて驚きました」

「でもそのマフラーはあったかそうね。彼女のものかしら。いいわね」

「はい、そうなんです。気の利く彼女で助かっています」


 思っていたよりも会話が続く。少し理沙が萎縮していた。タイミングを合わせて頷いているが、視線を微妙に合わせない。気を遣っているのかご飯も食べにくそうにしていた。


「理沙、たこ飯美味しいよ。言うほど水分が多くもないし」


 タイミングを見計らって理沙へと向き直り声をかけた。理沙は話しかけられると思っていなかったのか、はじめは言葉少なに返していたが、話しかけ続けているとだんだんと普段の調子を取り戻していった。

 婦人は以降話しかけてくることはなく、ほどなくして「それでは、楽しんでいってくださいね」と言い残して席を立った。

 終始朗らかな表情ではあったが気を悪くされていないだろうか。理沙へと話しかけたことが、露骨に会話を避けているように見えてしまっていたのなら申し訳ない。


 朝食を食べ終えると、ごみをまとめてごみ箱に捨てた。再び理沙が先導して歩き出した。時間が経ったからか温かいものを胃にいれたからか、もうマフラーは必要なくなっていた。


「良、ちょっと変わったね」朝市を出て少し経ってから、理沙がためらいがちに言った。「前だったら絶対しなかったと思う」


 非難めいた口調ではなかった。言わずにはいられなかったといった様子。しかし「前とは違う」という言葉は心をひどく揺さぶった。昔の自分との差は、そのまま理沙との心理的距離のように思えてしまう。あまりにもすっかり変わってしまったものがあるからだろうか、些細な変化にも過敏になっているのかもしれない。それがどうなったとして、想定通りの未来が手に入るわけでもないのだが。

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