どのくらい運命 (4)
家に帰り、ただいまとリビングまで響くように声をかけた。返事があってすぐ理沙が廊下に上半身を出してこちらをのぞいた。フードのついた緑色のパーカーを着ている。理沙は休日に外出予定がなければ部屋着だけで過ごすので、どこかに出かけていたようだ。
「お帰り。さすが良、ぴったりだね」
それだけ言ってキッチンにまた引っ込んだ。一日履き続けてくたびれた靴を脱ぎ、玄関に上がる。ふと視線を落とすと、革靴、スニーカーと並んだ自分の靴が酷く場違いに見えた。再びかがんで理沙の靴の隣へきれいに揃え直していると「丁度出来てるから、そのままリビング来てー」とキッチンから声がした。俺は急いで立ち上がり、洗面台へと向かった。
「なんだか嬉しそうな顔をしているね」
食卓に着くと、俺の顔を一瞥して理沙が言った。手には餃子が載った皿。焼きあがったばかりのようで、見て分かる熱を放っていた。自分が帰ってくる時間に合わせて仕上げてくれたようだ。本当に彼女には頭が上がらない。
「うん、まあ少しいいことがあったんだ」
「え、なになに? 聞かせてよ」
言いながら椅子を引いて理沙が座る。注いだお茶を理沙に渡すと礼を言って受け取った。自分の分も注ぎ理沙のいる正面を向くと、理沙が手を合わせてこちらを見ていた。急ぎ手を合わせて「いただきます」と唱えると理沙も同じように繰り返した。
「それでさ、今日なんだけど……圭子ちゃんに会ったんだ」
あらかじめ考えていた通りに話しはじめる。圭子ちゃんとの別れ際に決めていた。
駅へ向かう途中、圭子ちゃんに最寄り駅を話すと「その路線なら、こっちから行った方がいいですよ」と案内をしてくれた。本当は圭子ちゃんにそのままついてきて欲しかった。いてくれるだけで心強いし、理沙が記憶を思い出す刺激となるかもしれない。一度思いつくと、その可能性を試さずにはどこにも進めないように思えてしまった。だから、他人と自分の間で流れた時間は違うと気付かず切り出した。
「圭子ちゃんは今どこで寝泊りしているんだ?」
「今はホテルですね。うちの家、お金はあるんです。高いところに泊まっているわけではないですが、不自由はしてないですよ」
「もし良かったらさ、うちに来ない? 理沙と俺、ふたりの家だし、気兼ねすることないよ」
「いやあ……しますよ、それ。お姉ちゃんにはまた折を見て会いにいきますから、大丈夫です」
「……来てくれると、俺としては結構助かるんだ」
「でも、お姉ちゃんにここ五年の記憶がないってことは、わたしとの思い出もほとんどないんだと思います。突然行くことは止めた方がいいかなと。わたしも結構混乱してますし、今日のところはです。一旦……」
その時ようやく若干焦りながらも、今の自分は冷静でないかもしれないと思い始めた。
「あー……ごめん、そうだね」
「はい」
「それならさ、圭子ちゃんと会ったことは理沙に伝えても大丈夫?」
「そうですね。その方が色々都合はよいですよね」
わたしの方がちょっとだけ冷静みたいなので、そうからかうように前置きした後、圭子ちゃんはお姉ちゃんにはこれだけ伝えてくださいと俺に細かく指示をくれた。
その指示通り、理沙には圭子ちゃんがしばらくアメリカにいたということ、もし圭子ちゃんが会いたいと言ったら会うかどうかだけを伝えた。
「会いたい」理沙はすぐに答えた。「本当に難しいのなら仕方ないけど、私は会いたいと思ってる」
見つめてくる視線は逸らしがたいほど誠実だった。圭子ちゃんは自信なさげだったが、理沙は真剣に心配しているのだ。
理沙はまだ金縛りし続けるように俺を捉えたまま、歯切れ悪く疑問を口にした。
「ところで、圭子のことは思い出したの?」
まず心臓が跳ね上がった。意味を理解する前にどくどくと血が流れ始めたのを感じる。次に頭が働きはじめた。思い出した? 思い出した? 俺は覚えていない? そうか、単純な話だ。俺は五年前の段階では圭子ちゃんのことを知らなかったのだ。この五年間の記憶を失っているはずの自分が圭子ちゃんを認識しているはずがない。当たり前だ。なんて簡単なミスをしてしまったのだろう。
即座に恐怖に支配された。自分は今この瞬間に、ここにいるべき人間ではなくなってしまうのかもしれない。すべて見透かされていて、逃げ場はどこにも無いのではないか。
理沙がそっと視線を逸らした。するとわずかに余裕が生まれて、別の可能性に思考が逃げ出した。そうだ、理沙はわずかにでも記憶が戻ったことを期待しているだけかもしれない。
どれが真実かなど問題ではなく、それを正しいことにしなければならない。辻褄の合うストーリーを考える。日記があったというのはどうだろうか。
「あ、でも圭子が知っているのか」
絞り出すように弁明をしようとしたとき、理沙が何気なく呟いた。なるほど、そういう可能性もあるのか。
「そうそう。街中で突然声をかけられてさ。びっくりしちゃったよ。でも見ると理沙と顔が確かに似ているし、すぐに納得したな」
うんうんと理沙が相槌を打つ。殊更俺の嘘を見破ろうとしているようにも見えなかった。窮地は脱したようだった。冷や汗はいつの間にか引き、湿った服が冷たかった。
「でもあまり詳しく聞けてはいなくてさ。もし理沙が大丈夫なら、この五年間で理沙と圭子ちゃんの間にあったこと教えてもらってもいい?」
会話として不自然かどうか考える余裕はなかった。圭子ちゃんが俺に声をかけてきたとするならば、俺を認識できた、つまり圭子ちゃんは記憶があるということになってしまう。今後理沙と圭子ちゃんを会わせることを考えれば、理沙と接点のあった部分は自分が聞き出しておく必要があった。
「うーん……勿論いいけど、ちょっと後でいい? ひとまず寝る準備が出来てからで」
理沙は目をしばたたかせるとやけにのんびりとした口調で返した。
それで大丈夫だと答えると、理沙は「よし、じゃあまずはご飯だ」と切り替えるように元気な声をあげた。手を合わせるともう一度いただきますと言って食事に箸をのばしはじめる。気を抜けばため息をつきそうになるのをこらえて、自分も食事を再開する。
本当に危なかった。思えば、日記では圭子ちゃんの顔が分かった説明がつかない。自分も圭子ちゃんも気付かなかったなど、先が思いやられる限りだ。浮かれていたとしかいえない。
テーブルの上では餃子が弱々しく佇んでいた。冷凍ではなかった。そういえば、今度餃子を一緒に作ろうかと以前理沙と話していた。今日だとは聞いていなかった。理沙がその話を覚えているのかは知らない。
ひとりでも餃子を作れることが馬鹿みたいに悲しくて、気が付けば多めに酢をつけた曖昧な味で飲み下していた。
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