どのくらい運命 (3)
先ほどと同じコーヒーチェーン店にまた戻ってきていた。
しかし三十分前とはまるで状況が違う。がらんとしていた向かいにはようやく出会えた、なぜか金髪の圭子ちゃんが座り、陰鬱とコーヒーをすすっていた俺は今、赤く腫れた目をしたまま一向に減る様子のないコーヒーを両手で弄んでいる。
声をかけてきた圭子ちゃんは感極まって俺に抱きついてきた。遅れて状況を理解したときには涙が頬を伝っていた。雑踏で突如泣き出した大の男に慌てた圭子ちゃんが「ひとまず店に入りましょう」とこの店に押し込んでくれたのだった。
「良さん、大丈夫ですか」
圭子ちゃんが気遣うように微笑みながらおしぼりを差し出す。手の平を向けてそれを断った。
「ごめん、大丈夫だ。なんか涙がとまらなくなっちゃった」
「まったくです。わたしが泣く予定だったんですからね。この貸しは大きいですよ」
圭子ちゃんはやっとくつろげるといったように肩の力を抜くと目を細めて笑った。目に残った涙を手の甲で拭い取り、心を落ち着けるためすっかり飲み慣れたコーヒーに口をつけた。
そうだ、理沙に連絡をいれなければならない。申し訳ないが、さすがに今日は何よりも優先したいものが出来てしまった。少し待ってくれと圭子ちゃんに断って、理沙に夕食を作れずまた一緒にも食べられない旨をメールで謝罪した。
顔を上げると感慨深げにこちらを見つめる圭子ちゃんと目が合った。金髪という非常に違和感の残る特徴を無視すれば、目鼻立ちが少し理沙と似ている。紛れもなく圭子ちゃんその人だ。
どれほど会いたいと願ったことか。俺にとっての蜘蛛の糸、最後の一葉。話すべきことも聞きたいことも、どれだけ時間があっても足りないほどにあるのだが、避けては通れない話題があった。
「ごめん、まずその髪のことを聞いてもいいかな」
耐えかねて尋ねると、圭子ちゃんは「やっぱり気になりますよね」と苦笑いをした。
「こっちに戻ってきてからのわたしの話にもなるんですが……なんと、わたし目が覚めたらアメリカだったんです」
「アメリカ?」
「どうも異世界に行かなかった方のわたしは、その後すぐ母に連れられて渡米したみたいなんです。まあ娘にこれ以上おかしなことをされたら困るって感じなんですかね」
圭子ちゃんは長く伸びた金髪に指を通しながら続ける。
「この髪は戻ってきたときから、こうだったんです。だから詳しい経緯は不明です。むしゃくしゃしてやったのか、本当にこうしたかったのかも。でもアメリカだから金髪っていう短絡さは笑っちゃいますよね」
「意外と似合うんじゃないかな。はじめに違和感は確かにあったけれど」
「そうですかね?そう言ってもらえるなら良かったですけど。でも髪が傷んだりすると嫌だなあ」
おかしそうに笑う圭子ちゃんは、案外その派手な色を気に入っているのかもしれなかった。
「それにしてもアメリカか。戻ってくるのは大変だったんじゃないか」
そう水を向けると、圭子ちゃんは待ってましたとばかりにテーブルに勢いよく手をつき身を乗り出した。
「そうなんです!すっごく大変でした!実はアメリカだったことも大変だったんですけど、わたし起きたら病院で入院してたんですよ!起きたら周りの人がパニックになって何か色々言ってくるんですけど、何言ってるのか全然分からなくて、もう本当に大変でした。日本語の分かる人が来てくれて、事故に遭ったことを教えてもらって、でも何ともないからすぐバイバイとはならなくて、ママが来るとヒステリーで……」
本当にいくらでもあるのだろう。圭子ちゃんは止まることなく、大変だった話を語っていく。その中に気になる共通項があって、話を遮った。
「待って。事故で入院?……それ俺も同じだな」
「え、良さんも入院スタートだったんですか」
「ああ。外傷はほとんどないが、脳にダメージがあって五年ほどの記憶がないようだって診断されたよ」
「同じ!同じです!」
「なるほど……これはもしかして」
入院中に少し考えたことがあった。もし入院していなかったとしたら、こんなにも上手く元の生活に戻れなかったかもしれないと。特に理沙に何と説明できただろうか。そこはついていたと呑気に思っていたが、圭子ちゃんも同じであったならばこれは重大な意味を持つかもしれない。
「なにか心当たりがあるんですか?」
「うん。それが天使なりの配慮ってことなんじゃないかなって。異世界に行っている間の記憶がない俺たちが、周りに怪しまれないためのさ」
「そう言われてみれば確かに……はい……まあ、助かりはしたんですかね」
助かりはしたが迷惑だったと、存分に訴える余韻を残して圭子ちゃんは答えた。まったく同感だった。もうちょっと何かいい方法はなかったのだろうか。せめて説明をして欲しかった。
「それで……その、良さんはお姉ちゃんに会えたのでしょうか?」
不自然に避けたまま他の話をしばらくした後、少しためらいがちに圭子ちゃんがその話題を口にした。医者の余命宣告を聞かんとする患者のような緊張感が伝わってくる。目の前に置かれたアイスコーヒーのグラスに水滴が伝うのを見届けて口を開く。
「うん、会えたよ。でも記憶がないみたい。取り戻し方も分からない」
自分でも驚くほど事務的な淡々とした回答がするりと出た。安堵し、悲しみ、驚く圭子ちゃんの変化を捉える。
「まずは話すよ。質問があれば途中でしてくれて構わないから聞いて。理沙には会えた。元からこっちでも恋人だったみたいで同棲をしていたんだ。さっき話した通り、俺は病院で目が覚めたんだけど、そこでもう理沙に会えた。だけど、話してすぐに理沙の記憶がないことが分かったんだ。俺たちが一緒に旅をしていた、五年間の記憶がね。そのことについては理沙とあまり話を出来ていない。事故に遭って頭がおかしくなったのかと思われそうになって話せなかった。何が起きているのかは分からない。だから一層圭子ちゃんに会いたかったんだ。……ねえ、何か知っていることはない?」
結局圭子ちゃんが質問を挟むことはなかった。一通り話し終わった後も混乱しているのかすっかり考え込んだ様子だった。無理もない。誰が想定できたというのだろうか。努力すれば必ず報われるとは思いもしない時代だが、唐突に奪われることに関しては無防備であった。もう理不尽に失うことはないと俺たちは思い込んでいた。
「ええっと……お姉ちゃんとは今も一緒に暮らしているってことでいいんですよね?」
「そうだね」
「だけどお姉ちゃんは記憶をなくしていて、理由も戻し方も分からないってことですね?」
「そうだね」
「それで何か手掛かりがわたしから得られないかということですね?お姉ちゃんが記憶をなくしてしまっているから」
「そう、だね」
整理のためか質問を繰り返すと、圭子ちゃんは悔しそうな表情をして考え込んだ。
「だとしたら、うーん……そう言われても特に思いつくことはないですね。お姉ちゃんが記憶を消して欲しいという願いを持っていたことは絶対ないですし、こっちの世界に戻ってくる最後の夜、私はお姉ちゃんと一緒に眠りについたんですけど、何か変わったことも無かったように思います」
それだけ言うと圭子ちゃんはちらと顔を上げてこちらの様子をうかがった。すぐに目を伏せると、所在なさげに視線を彷徨わせ、既に空となっているコーヒーに口をつけた。小さく言葉を発してすぐに口を離す。
「……呪いということはないかな?理沙は最後の日、医者に見てもらっていたから」
「完全に無いとは言えませんが……。お姉ちゃんは大丈夫って言ってましたよね?そこはそれを信じるしかない気がします。もし何か呪いのせいだったとして、誰も見破れなかった呪いなら、今のわたしたちにどうすることも出来ませんし」
「……本当に誰も何も気が付かなかったのかな」
「お姉ちゃんに何か隠していたことがあるんじゃないかって疑ってるんですか?」
直截な表現にたじろぎ、言葉に詰まった。しかし異論はない。頷いて肯定を示す。
「隠す理由がありますかね。もし隠していたことがあったとして、何か不安要素があるのなら、こちらの世界に戻ってくる必要性も分かりません。気にならないことはないですが、堂々とお医者さんに行ったり、わざわざ戻ってくる選択をするというのは何だか変な気がします」
仮にこちらの世界に戻ってくることに対して不安材料があるならやめればいい。わざわざ疑われるような医者に敢えて最終日に行く必要もない、か。それはそうなのかもしれない。
「いずれにせよ、もし考えるのならばそれは諦めることを決めてからではないかと思います」
そう言って圭子ちゃんは貼り付けたような笑顔を作った。そしてコーヒーにまた手を伸ばしかけ、今度は触れる前に空であることに気が付いた。
その時、携帯がメッセージを受信したのか鞄の中で重く振動した。確認すると理沙からだった。
「お姉ちゃんですか?」
「うん、いつ帰ってくることになりそうかって」
「そうですね。妻帯者を拘束するには非常識な時間になっちゃいましたね」
圭子ちゃんはそう冗談を言うと理沙とそっくりに笑った。つい今朝も見た。それなのにひどく懐かしいものを見た気がした。理沙と圭子ちゃんは違うのだし、圭子ちゃんを見たのは実際久しいのだから何もおかしくはない。くだらない線引きだ。そもそも自分は笑顔の種類など気にしたことはほとんどなかったじゃないか。
圭子ちゃんがいそいそとリュックから携帯電話を取り出した。連絡先など今後に必要な情報を交換する。安堵と自嘲がないまぜになっていた。まるで普通の友達みたいだと思った。カフェで、身の上話をして、また会うことが分かっていて……。
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