無知へ (2)

 木枯らしのような冷たい風が吹いた気がした。

 背筋が一瞬冷える。夜の公園にいた。街中にあるような公園ではなく、緑が多い。私はベンチに座っていた。ふたり座れるくらいの大きさのベンチの右端に。左端には、良がいた。


 手を繋いでいた。会話はなかった。慣れないからか、ぎこちない様子だった。

 ぎゅっと力を強めて少しこちらに引き寄せてみる。良は大人しくそれを受け入れていた。

 ちらりと彼の表情を窺うと、なんだか嬉しそうに握った手を見つめている。

 嬉しそうだねと聞くと、凄く嬉しいとそのまま答えた。

 彼は恥ずかしそうに言った。


「隣で手を握れるって凄く幸せだと思うんだ。たとえばさ、仮に神様とかがいて自分を助けてくれたとしても、神様はいつも隣にいて手を握ってくれるようには優しくできないと思うんだよね。だから、隣で手を握るのって凄く特別なことのような気がする」


 じゃあ、これは良の愛ってことになるのかな。

 からかうつもりで聞くと、良は一瞬虚を突かれた顔をして、それから急に顔を赤くした。


「うん……まあ、そうかもね……」


 照れながら言うと、特別に優しい笑顔でくしゃっと笑った。


 想像していなかった反応に、喉が急に詰まって一瞬呼吸が覚束なくなった。

 彼は質問を肯定したのだ。ようやく耳に頭と心が追いついたとき、私は今さら自分の失敗に気が付いた。

 だったら……きっと私は良を傷つけてしまう。


 間違えたんだ。


 言葉を無くして黙っていると、良が急に興奮した声を出した。


「見て!」


 そう言って良は立ち上がった。そしてこちらを振り返ると、冒険へと連れ出す少年のような無垢さで、私に手を伸ばした。差し出された手を取ると私を力強く引き上げる。隣に並んだときにはもう私を見ていなかった。手を繋いだまま、空を仰いでいた。

 促されるままに顔を上げた。良が何を見せたがったのかすぐに分かった。

 

 夜空から無数の光が降り注いでいた。

 星ではなかった。漆黒の空の中を、花火のように同時に広がった光が、頬に涙が流れるようなスピードで落ちていく。光は空の高いところで次々と生まれてきて、芸術性を無視して不規則に夜空を彩る。

 最初は白。でも後はバラバラに色が変わっていく。

 ある光は拍手のように見えたし、別の光は子守唄のように見えた。


 夢や希望の具現。私には眩しすぎる光景だった。その光は美しくありながら私を照らすものではないと、誰に言われずとも理解していた。

 力なく手を垂れ下げた。人が手を伸ばしそれを掴もうとするのであれば、この距離が私には相応しいと思った。

 それに、良が隣にいるのだ。彼の前で手は伸ばせない。

 せめてこれだけは許してほしいと、私はこっそりと目を瞑った。


 瞼の裏ではじける光に耐え忍ぶ。

 闇を抉るように咲く。より深い闇がそれを塗りつぶす。


 羨ましいというのではない。

 良と同じ気持ちを分かち合えない。そのことだけが、どうしようもなくつらかった。


 誰にも聞こえないよう注意して、細く息を吐く。


 すると、こつんと、何かが手に触れた。


 目を見開く。見ると、良が私の手を探り当て繋ぎ直そうとしていた。

 戸惑う私に対して良が「どうした?」と柔らかく言う。

 私はその優しい声音のせいで、無意識に手を握り返してしまった。

 直前に感じていた罪悪感をすべて忘れたように、怖々と、ぎこちなく。

 良は不思議そうに笑って、繋いだ手を小さく揺らした。


 全部うやむやにしてもいいと言われた気がする振動。揺籃のようだった。

 私はこらえきれず、思わず口にしてしまう。 


「私たちさ、絶対もっと上手くやれたのにね」


 ぴたりと揺れていた手が止まった。

 良が黙ったままこちらに目を向ける。

 空では光がずっと無責任に滑り続けていた。

 良が言った。


「でもオー・ヘンリーみたいでさ、悪くはないと思わない?」


 まるで映画の感想を求めるみたいな調子だった。

 私は生まれてはじめてぽかんという表情をしていたと思う。

 予想していなかった言葉に思わず笑い出してしまう。


 まったく……どうしてこの人は、こんな風に言えてしまうのだろう。

 自分が賢者であるなどとおそらく一度だって思ったことがないだろう彼は、私のためならそう言ってくれるのだ。


 ああそうだ。

 私たちはもっと上手くやれた。でも間違いなく、互いのことを最後まで愛している。何よりも大切に思っている。

 それだけは自信を持って肯定できる。


 私は元気よく手を振り解くと、ばかと笑いながら良の脇腹に拳を軽く当てた。


「痛っ!」


 良は大げさにリアクションを取ると、わざとらしく視線をちらりと寄越してきた。

 二人とも笑いを抑えて見つめ合う。どちらからともなくすぐに笑い出した。

 

 私は笑いながら泣いていた。

 悲しくて泣いていた。

 でも間違いなく幸せだった。


 やがて笑い声が体の内から轟くようにこだましはじめて、視界がぐらぐらと傾きだした。

 私は夢の終わりを悟った。最後に目に焼き付けたいと良を見ると、彼は目から涙を一筋流して何か叫んでいるようだった。

 思わず手を伸ばす。

 良も手を伸ばしたのが見えた。


 もう少しで触れるという間際。


 バチっと火花が散るような衝撃がした。


 心が世界から引きはがされて、一気に宇宙まで飛ばされそうな浮遊感。

 天地がひっくり返って一瞬、時が止まる。

 再び心臓が脈打とうとして。

 光も、公園も、夜も、良も、消えた。


 手は届かなかった。


 ただ一つのことを考えていた。


 最後、良は「愛してる」と言ったと思う。

 絶対そうだと思う。


 


 気づくと私は元の簡素な部屋で泣いていた。

 思い出とするには早すぎる時間が過ぎた。

 急き立てられるようにして立ち上がった。どこかへ行こうとしていた。

 部屋を出ようとしたところで気付いた。


 どこにも向かうべきところなどない。

 扉を背にして弱々しく座り込む。

 古い扉が鼠の鳴き声のような音をたてた。


 窓の外に目を向けていた。


 澄んだ空が高く続いている。


 青い、と思った。

 きれいな青だ、と思った。

 寂しくてきれいな青だ、と思った。

 寂しいのは私かもしれない、と思った。


 窓の外に目を向けていた。


 あの空の向こうには何があるのだろうと思った。

 私は、ただ待つだけでは退屈だと考えはじめていた。



 ただいま、と口の中で呟いてみる。

 静寂がわずかに揺れた。


 美しい波紋のようだった。

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