目の前の小さな幸せ

 それから数時間後……

 何とか、一命は取り留めた。

 海音の命は繋がれた。でも、発作によるダメージは深刻だった。

 集中治療室の中にいる海音は深い眠りについたまま微動だにしない。

 もうこのまま目覚める事は無いんじゃないか、私の心には絶望に近い感情が広がり始めていた。絶対に受け入れられない、いや受け入れたくない現実が、すぐそこに迫っている。


 富江さんは何も言わずに集中治療室の海音を小さな窓から覗き込んでいた。

 感情を表に出す事は無く、呆然と窓の中を覗き込む富江さん、その姿がいつにも増して小さく見えた。


 何も分からない真琴はベビーカーの中でぐっすりと眠っている。

 その天使のような寝顔が、かろうじて私を正気にさせてくれる。

 いや、もしかしたら、海音が延命治療を拒む、という意思表示をした日から今日までの間に、私の中では少しずつ覚悟が固まり、心よりも頭が先に働いて、取り乱さずに済んでいるのかもしれない。


 いくつもの機械に繋がれて、海音は生かされている。

 いつもと同じように穏やかな顔で眠りについている海音の姿を見つめていたら、出会ってからの思い出が頭の中を駆け巡った。


 川崎の居酒屋で出会ったいけ好かない男、顔だけ男前で、中身の全く伴わない駄目な男、そう思っていたのに、気がついたら、その男の部屋で目覚め、いつの間にか心を奪われていた。


 フリーターと聞いて、その態度を改めさせようとしていた。それなのに、仕事一筋で真っ直ぐに生きてきた私のほうが引き込まれ、生きている事の楽しさ、挑戦する事の大切さ、幸せの意味を教えてもらっていた。

 海音は、それまで見た事の無かった景色を沢山魅せてくれて、知らなかった事を沢山教えてくれた。


 海音と暮らす人生に思いを馳せ、意地を張って始めた同棲生活。あの頃の海音は、誰よりも生命力に満ちていて、何事にも屈しない強い男だと思っていた。

 この人と一緒に暮らしていけば、永遠の幸せを手に入れられるものだと信じていた。永遠なんて絶対にあり得ないのに……


 未来を見つめる事が出来ない海音は、私の願いを叶えられないから、と去っていった。あのまま別れていたら、こんなに悲しい思いをする事は無かっただろう。

 だけど海音と再会し、海音の全てを承知した上で沖縄へ押しかけ、全てを受け入れて過ごしてきたからこそ、手に入れられた幸せが山のようにたくさんある。

 だから後悔なんてしていない。

 こんな日が、いつか訪れる事を覚悟して生きてきたのだから……


 緊急搬送されてから五日目の朝、海音は突然、目を醒ました。

 医師からは覚悟しておくように言われていた。

 だから、もう目覚める事はなく、このまま旅立ってしまうのではないかと思っていた。だけど、海音は死の淵から生還してくれた。

 酸素マスクをつけ、ぼんやりと視線を宙に漂わせていた海音は、私の姿を認めると、目をはっきりと開いて、「おはよう」、と掠れた声で、ひと言だけ言った。


 私が、「おはよう、目覚めはどう?」、と聞き返すと、海音は何も言わずに笑顔を浮かべて、はにかんだ。もう見る事が出来ないと思っていた海音の笑顔が、それまで押し留めていた私の感情を決壊させた。


 止め処も無い涙が溢れ出し、ベッドの横にしゃがみ込んだ私は、海音の手を握ったまま、掛け布団の上に顔を埋めた。

 堪えようにも堪えきれず、声を上げてひたすら泣いた。抑えてきたものが多かったせいか、どうにも感情をコントロールする事が出来ない。


 そんな私の手を、握り返す海音……

 それはとても弱々しかったが、その反応が心強かった。

 ひとしきり泣きじゃくった私が枕元に顔を近づけると、海音は私の頭に手を当てて優しく撫でてくれた。

 二人きりの時、私が甘えたそぶりをすると、いつもそうやって包み込んでくれた海音、もう二度と味わえないと思っていた刹那の幸せが蘇った。


 僅かではあったが、海音と過ごす甘い時間を噛みしめた。

 海音はひとまず小康状態に落ち着いた。

 心臓の機能が落ちているため、酸素マスクを着けたままだが、会話をするときは一時的に外して、話せる様になった。

 もっとも、声を出すというのは想像以上に体力を使うようで、多くの事は話せない。それでも、嬉しかった。生きている、と言うだけで幸せだった。

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