運を動かすと書いて運動
ゴールデンウィークが明けると、担当していたプロジェクトは佳境を迎えた。
仕事に没頭する毎日が続き、余計な事を考えるゆとりは消えた。
同時に海音の幻影に囚われる事も無くなった。
それでも心の中には、海音の生き方、が根付いているようで、やりたいと思ったことを先延ばしにしようとすると、それではいけない、と言う気持ちが自然に湧いてくる。だから、やりたい事は疲れていても、やるようにしている。
高校生の時の担任教師が、口癖の様に言っていた言葉がある。
「運を動かす、と書いて運動、運気が停滞したら体を動かしなさい」
ふと思い出したので、スポーツジムへ通う事にした。
二十四時間営業のスポーツジムの会員になり、どんなに仕事が忙しくても、たとえ数十分でも時間があれば、ジムへ通うようになった。
トレッドミルの上を走ったり、エアロバイクを漕いだり、インストラクターに付き添って貰ってウエイトトレーニングをしたり、プールで泳いだり、ヨガを体験したり、ピラティスのレッスンを受けたりもした。夢中になってか身体を動かし、思い切り汗を掻くとスッキリして、ぐっすりと眠れるし、その日にあった嫌な事も忘れられる。だけど私は、エアロビクスだけはやっていない。リズム感が決定的に欠如している事を自覚しているからだ。
ジムに貼り出だされているポスターには、鍛え抜かれた女性の姿が写し出されていた。私は決めた、いつかあんな体型に、ではなく、必ずあの体型を手に入れる、と。
私は確かに変わった。海音は気まぐれな風のように私の心を吹き抜けていき、退屈だった私のメンタルを変えたのだ。
ある日、後輩の理恵に誘われて食事へ出掛けた。
梅雨明けがニュースになり始めた頃、お互いが担当していたプロジェクトは終わりを迎えた。その区切り、と言う事もあっての誘いだと思う。
理恵と同じ部署に配属されてから五年以上になるが、理恵から食事に誘われたのはこれが初めてだった。
ダブルデートをした日から、理恵との関係が少し変わった気がする。
私と接する時はいつも覆面を被っていた理恵が、素のままで接するようになってきのだ。
オブラートに包んだり、本音とは裏腹な事を言ったり、探るような事を口にしていた理恵が、思っている事をそのまま言葉で表すようになった。
だから私も言葉の裏側に隠された意図を深読みするような事はせずに、真正面から受け止めようと努めた。私と理恵の間には信頼関係が芽生えようとしている。
だけど海音と別れた事は伝えていない。
隠すつもりはないのだが、どうしても言い出す事が出来ないでいた。
新橋の線路沿いにあるドイツ料理の店で、私と理恵は向かい合った。
ソーセージと、ジャーマンポテトと、ザワークラウトをつまみに、ビールのジョッキを何杯か空けるまでは、取るに足らない事を話していたのだが、ジョッキを口に運ぶ頻度が減り始めた頃、理恵が少し話しづらそうに口を開いた。
「今って、海音さんと、どうなっているんですか?」
突然の話題にドキッとした。
別れたの……
逃げられたの……
捨てられたの……
何と言えば相応しいのか、返す言葉に迷った。
それとも、ぼんやりとお茶を濁すべきか。
でも、理恵の事だから、誤魔化そうと思っても、誤魔化せる相手ではない。
「何て言ったら良いのかな…… もう三か月以上前になるんだけどね、家を出て行っちゃったのよね。別れた、なのか、逃げられた、なのか、捨てられた、なのか、良く分からないけど、結果的にはどれも一緒か……」
私は苦笑いを浮かべて、思っていた事をそのまま口にした。
どう思われても、何を言われても構わない。
笑うならば笑えば良い、ノーガードで全ての口撃を受けようと覚悟を決めた。
「そうなんですか…… でもそれって、全部間違っている気がします」
想定外の言葉に私は戸惑った。
同情の言葉か、からかうような言葉が返って来るものだと思って、身構えていたからだ。
「えっ、どういう事?」
きっと理恵は、私が知らない何かを知っている、そう思った。
「この間、彼氏が盲腸で入院したんですよ……」
まったく脈略の無い話題に思えた。
「理恵ちゃんの彼が入院した事が何か関係あるの?」
結論を早く聞きたかった私は、理恵が話そうとするのを遮ぎって詰め寄った。
「最後まで話を聞いて下さいよ」
理恵は、焦れている私に諭すような言い方で釘を刺し、話を続ける。
「彼氏が入院している病院で、海音さんと会ったんです。海音さん、車いすに座って、看護師に押されていて、ちょっとやつれた感じだったんです。何となく声を掛け辛かったんですけど、海音さんが私に気づいて…… ここで会った事を汐里さんには内緒にして欲しい、って言ったんです。だから、約束を破っちゃった事になるんで、ちょっと気まずいんですけど…… でも黙っているのも、どうかなって……」
突然、頭の中で大きな塊が動き始めた。
立体的なパズルがガチャガチャと動き、収まりの良い形を作り出そうと、右へ左へ、上へ下へと移動する。
海音は、私の元を去ったのではなく、何かが起きて帰って来る事が出来なくなったのだ。それとも私の元を去ってから、身体に何か異変が起きたのだろうか。
もしかしたら、身体に起きた異変が原因で、私の元を去ったのかもしれない。
いくつかの仮説を立ててはその可能性を探り、自分にとって都合が良いのはどれか、を必死に弾き出そうとした。
でもその作業には、何の意味も無い事を悟った瞬間、私は理恵に尋ねた。
「海音に会った病院はどこなの?」
理恵は、「私から聞いた事は内緒にしてくださいね」、という前置きをして、重たそうに口を開いた。
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