このままでは終われない
臨海部にある大きな病院は、目を細めたくなる程に眩しい。
夏の日差しを受けて輝いている白い壁が、緊張感をもたらす。
もうすぐ海音に会える、と言う昂ぶり、会って何を話すのだ、という戸惑い、それに、これからどうすべきか、と言う悩み、ここへ来るまでの間、何度踵を返して折り返そうと思った事か。
病院の敷地に入り、海音の病室が分かるまでに何人もの人に問い合わせ、その度に不明瞭な返事が返ってきた。
大きな病院だから、海音の名前を告げたところで、病室がどこかなんて、簡単に教えられないと言うのは仕方ない事だし、理恵が海音に会ったのは四日も前のことだから、今も海音がこの病院に入院しているかだって分からない。
訪ねる度に私の気持ちは萎んでいき、諦める機会が何度ももたらされた。
だけど、海音に会いたい、と言う気持ちが最後のところで勝り、ようやく辿り着く事が出来た。
私は今、車椅子を押して、病院の中庭へ向かっている。
海音の後ろ姿が少し小さく見えた。
後姿を見つめる事なんてあまり無かったが、それは気のせいではないと思う。
明るくて、逞しくて、頼り甲斐のあった海音が弱々しく見えた。
それは着ている入院着のせいかもしれないし、車椅子に座っているからなのかもしれない。
私が病室に入った時、海音は苦笑いをしていた。
「理恵ちゃん…… やっぱり約束を守れなかったか……」
海音はそう言った。私がここへ来る事を想定していたような言い方だった。
病室は四人部屋だった。部屋で話をするのは迷惑だから、という事で中庭へ移動することになった。
「本当は歩けるんだけどね、歩かないように釘を刺されてされているんだ」
ベッドから身体を起こした海音は、自力で立ち上がり車椅子に座る。
車椅子が海音に最も似つかわしくない乗り物に思えた。
私は、海音が座っている車椅子を押して、中庭へやって来た。
時刻は三時を少し過ぎた頃、夕方へと向かっていく時間帯だったが、お日様はまだ高い。
木陰に置かれているベンチを見つけた私は、その横に車椅子を止めた。
そして、向かい合うのではなく、並ぶように座った。何となく海音を正面から見つめる自信が無かったのだと思う。
海音の横顔に視線を投げ掛けた。
海音は私の視線に気づいていると思うのだが、視線を合わせてはくれない。
「どうして、ここに居るのか聞かせてくれない、何を聞いても驚かないから……」
昂ぶる気持ちを抑え、出来るだけ感情を殺して言った。
海音はふーっと長く息を吐くと、徐に空を見上げる。
「なんか今日、汐里が来る気がしたんだよね、来たら話さなきゃならないんだろうなって覚悟していた」
海音は私のほうを向く事無く、真っ直ぐに前を見つめて静かに語り出した。
海音は心臓に重い病を抱えていた。
発症したのは五年前で、緩やかに悪化して行くという一面と、発作が起きれば、その瞬間に命を落としかねない、と言う二つの面を持ち合わせているのだそうだ。
この状況を海音は、時限爆弾を抱えているようなものだ、と表現した。
今、入院しているのは、悪化のペースが加速してきたので、それを遅らせる為の治療をしているらしい。
でもこの治療は、完治を目指すものでは無い。
あくまでも悪化のスピードを鈍らせるだけだ。
海音に残された時間はそう長くはない、これが現実だった。
将来の事を話題にした時、海音が表情を曇らせるのは、これが原因だったのだ。
海音には、いつかなんて存在しない、いつ命を落とすか分からない、だから今を生きる、それしか無かったのだ。
海音は、たぶん私が聞きたかった事を全て話してくれた。
ゆっくりと間を取り、微かな笑みを浮かべつつ、深刻さを感じさせないように、淡々と話した。でもそれが、私を気遣っての事だと分かるので、余計に悲しさが伝わって来る。
川崎の居酒屋で偶然出会った時、好きになった、と海音は言ってくれた。
自分の身体の事を考えたら、好きになるべきではない、と思ったそうだが、好きになってしまった、と言った。
それが本心なのかどうか、それは私には分からない。
でも私の愚痴を聞いて、もっと人生を楽しんで欲しいと思った、と言うのは何となく頷ける。
将来が無い海音にしてみれば、仕事に忙殺されて、貴重な時間を浪費しているような生き方は、見るに耐えなかったのだろう。
海音は人生の楽しみ方を教えてくれた。
そんな海音と一緒に居られたら、ずっと幸せになれると私は思った。
だけど海音に将来は無い。
将来の幸せを求められた海音は、それに応えられないから、と私の元を去った。
海音のこれまでの行動と、話の内容はすべて辻褄が合う。
だけど、私のところを去る前に伝えてくれれば、もう少し違う形を作れたような気がする。
それがどういう形なのかは分からないが……
「汐里の前ではさぁ、弱いところを見せたく無かったんだ。僕は未来へ希望を抱く事が出来ない、出来るのは、出会った人の心に思い出を刻む事だけ。だから悲しい思い出は残したく無かったんだ……」
語尾のところが、消えてしまいそうなほど弱々しかった。
希望を抱く事が出来ない、という海音が悲し過ぎて、涙が溢れ出してきた。
私は立ち上がって海音に背を向けた、涙を海音に見られたくなかったからだ。
将来の姿を思い描く事が出来ない海音は、出会った人達の心の中に生きようとした。だから人との出会いを大切にして、その瞬間に全力を尽くして、記憶の中に自分の存在を刻もうとしたんだ。
海音と出会ってからの思い出が頭の中を駆け巡る。
海音はいつも笑顔で、包み込むような優しさで、私を受け入れ、心の中に溶け込んでくれた。
もしも、ここへ来なければ……
私の心に存在する海音は、笑顔のままだった。
きっと、それが海音の望みだったのだろうと思う。
でも、その裏側に隠された秘密を知ってしまった今、その楽しい思い出の全てが悲しみの色に染まっていく。
このままでは終われない。
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