重ならない曲線
「それで、これからどうするの?」
溢れてくる涙を振り切って、言葉を搾り出した。
「あと五日で治療が終わるんだ、退院したら沖縄へ帰ろうと思っている。残された時間は、故郷で静かに過ごそうと思ってね」
海音は目を細めて、そう言った。
その目に以前のような輝きは無い。
海音は、今を生きる、という姿勢をも失おうとしているのか……
残された時間を静かに過ごす、そんな切ない言葉は聞きたくなかった。
「私も一緒に沖縄へ行きたい。沖縄で海音と一緒に暮らしたい」
海音を救えるのは私しか居ない、そんな思いから咄嗟に出た言葉だった。
海音は嬉しそうに笑った。
きっと喜んで受け入れてくれる、そう思ったら沈んでいた心に光が差してきた。
しかし……
海音の言葉は、私が期待していたものとは違っていた。
「それは駄目だよ…… 残りの時間はお袋への親孝行に使おうと思っているんだ。汐里には大切な仕事があるし、僕はもう長くは生きられない、汐里に辛い思いはさせたくないんだ」
海音はきっぱりと言った。
「そっか…… そうだよね……」
諦めの言葉が漏れた途端、身体中から力が抜けていくのが分かった。
失望した。
それは海音が言った事に対してではなく、簡単に諦めの言葉を口にした、自分に失望したのだ。
所詮、私は、常識とか、世間体とか、他人からどう思われているとか、そう言った事を振り切れない、つまらない人間なのだ。
病院へ歩いて来る時、私は淡い期待を抱いていた。
だけどそれが、いかに儚いものであったかを知らされる。
何を期待していたのか、それは分からない、でも海音に会ったら、何かを取り戻せる気がしていた。
だけど、取り戻せるものなど何も無かった。
いや違う、取り戻そうとする覚悟が足りなかったのだ。
私はベンチに腰を下ろして、俯いた。
セミの鳴き声がやかましく響いていた。
会話が途絶えて、重たい空気が流れ始める。
「本音を言うとさ、汐里が思っているほど、悲観してないんだよね」
長い沈黙に耐えられなくなったのか、それともガックリと肩を落としている私を見ていられなくなったのか、海音が口を開いた。
「人は皆、いつか死ぬわけじゃん。僕はその期限が近いって事を分かっているだけなんだよね。分かっているからさ、いつかやろう、なんて悠長な事を言っていられなくて、やりたい事は何でもやって来た。お陰で、普通に生きていたら、やらなかった事をたくさん経験する事が出来た。汐里との恋もそうだよね。そう思うとさ、悪い人生じゃ無かったなって気がするんだ」
海音は明るく、それでいて、しみじみと話した。
汐里との恋も…… と言った時、鼻の奥にツーんとした痛みが走って、抑えていた感情が噴出しそうになった。それをやり過ごすために、大きく息を吸い込んで必死に堪える。堪える必要なんて無いのかもしれないのに。
海音は、もう次の人生に進もうとしている。
私が感情を露わにする事で、それを邪魔してはいけない、そんな配慮が私の心にあったのかもしれない。配慮が……
不意に、昔の彼氏に言われた言葉が、頭を過ぎった。
「汐里は、正しすぎて、可愛げがないんだよ……」
正しすぎる? 私が?
仕方ない、そう言う女なのだ。
それから、海音は沖縄へ帰ってからの事を話してくれた。
海音は、母親が営んでいる宿を手伝いながら、のんびりと暮らすそうだ。
ご両親は海音が生まれる前に沖縄へ移住して小さな宿を始めた。
元々料理人だった父親は、沖縄の食材をふんだんに使った料理で客をもてなし、小さいながらも人気の宿となって、繁盛していたそうだ。
しかし、父親は海音が小学校を卒業する前に死んでしまう。それからは母親が一人で宿を切り盛りする事になった。
とは言え、料理がセールスポイントの宿だったから、次第に客足は遠のいた。
生活に困った母親は朝食のみの安価な宿へと変貌させ、ギリギリの生活を守って海音を育てた。
そんな母親の苦労を目にしてきた海音は奨学金を貰って東京の高校へ進学する。アルバイトをしながら生活費を稼いで、大学を自力で卒業した。
一流企業に就職した時、母親を東京へ呼ぼうとした。しかし父親と始めた思い入れのある宿を手放すのが嫌だった母親は、それを拒んだ。この事が軋轢を生んで、就職してから海音は一度も沖縄へ帰っていない。
そんな海音が、残されている時間を母親と過ごすと言う。
海音の残り少ない人生に、私は存在していない。少し前まで重なり合っていた、私と海音の未来曲線は二つに分かれ、もう二度と重ならない方向へと進み始めている。
海音の声がフェードアウトしていくように遠ざかっていった。
一緒に歩んでいく未来が見通せなくなったせいか、海音の話が、人づてに聞いた、どこかに住んでいる、誰かの事の様に聞こえ、頭の中を素通りしていく。
私の耳に響いてくるのは、やかましいセミの鳴き声だけになった。
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