ふくぎじゃない!
病院で海音に会った一週間後、理恵から誘われた。
海外出張に行っていた理恵は、帰るなり私の席を訪ねてきて、お土産だと言って、ゴディバのチョコレートを机の上に置き、その代わりに夕食を奢るよう迫ってきた。
私は嫌な顔をしつつも、なんとなく誰かと話したい気分だったので、仕方ない、というような態度を装いつつ、食事へ行くことにした。
その日の帰り、理恵が韓国料理を食べたい、と言うので、新橋の線路沿いにある屋台風の韓国料理店に入った。
人が忙しなく動き回る賑やかなお店で、何となく落ち着かない雰囲気だったが、どうせ聞かれるであろう、海音の話をするには、しっとりと落ち着いた店よりも、こちらのほうが好都合だと思った。
ジョッキの生ビールを一杯飲み干すと、理恵はいきなり本題に切り込んできた。
私は、ありのままを語った。
海音が私の元を去った理由、身体の具合、沖縄へ帰って暮らす事、それに、海音のこれからの生活には、私が含まれて居ないこと……
理恵は、ひと通り聞いてくれた。
石の上で焼いている肉をトングでひっくり返したり、私の器に取り分けたりしながらだったので、どれほど真剣に聞いているのかは疑問だったが、その方が話しやすいだろう、と言う理恵なりの気配りがあったようにも思える。
話し終えると、理恵はサムギョプサルを口へ運びながら、ポツリと言った。
「それで…… 良いんですか?」
私の目を見もせずに、投げやりな言い方をしたので、少しカチンと来た。
「良いも悪いもないでしょ、もう海音の人生に私が関わる事はできないんだから」
「本当にそう思っています?」
理恵は相変わらず、手を動かしながら話す。
人を見下したような態度に、益々腹が立って来た。
「どういう事…… 何が言いたいの?」
理恵は私の目をチラッと見て、口の中の肉をビールで押し流すと、高圧的な態度で話し始めた。
「海音さんは沖縄でどんな風に暮らすか、話してくれたんですよね。話した事に意図があるのか、それは分からないですけど、少なくとも会おうと思えば、会える訳じゃないですか。嫌われた訳じゃないし、この状況で簡単に諦めるって、元々、そんなに好きじゃなかったんじゃないのか、って気がしますけど……」
理恵はそこまで話すと一度、ビールで喉を潤した。
私は理恵の言った事を咀嚼しようと、必死に頭を働かせる。
少し前かがみになった理恵が、私の顔をじっと睨んだ。そして言葉が出てこない事を確認すると、不機嫌そうに話を続けた。
「結局、汐里さんは、今の生活と海音さんを天秤に掛けて、海音さんの事を諦めたほうが無難なんだ、って判断をしている訳ですよ。困難だからと言って欲しい物を諦めて無難な方へ進む、計算が得意な汐里さんらしい判断ですよね」
言い方に腹が立ち、ムカッと来た。少し言い過ぎじゃないかとも思った。
でも…… きっと理恵の言う事は正しい。
私は黙り込んだ。
本当の事を言われると人は怒り出す、と聞いた事があるが、あまりにも理恵の指摘が的確すぎて、反論する言葉すら失う。
言葉が出ない代わりに、色んな妄想が頭を巡った。
海音を訪ねたら、果たして海音はどんな態度を取るのだろう?
スーツケースをガラガラと引いて、なりふり構わず押し掛けた私を、それでも海音は追い返すのだろうか。
仮に海音が受け入れてくれたとして、いきなり沖縄で暮らす事になる娘を、私の両親はどう思うのだろう。
会社の人達には何て説明する…… 仕事はどうなるのだ。
色んな物を捨てて、海音のところへ行って、海音が死んでしまったら、私はその後、どうすれば良いのか……
状況を整理すればする程、賢い選択とは思えない。
でも、海音の事をきっぱりと諦められるのか、と言うと、そうとも言えない。
何を考えても正しい答えを導き出せず、視線をテーブルに這わせていると、理恵の声が少し大きくなった。
「そもそも、海音さんに残されている時間が少ないって、誰が決めたんですか。そんなの分からないじゃないですか、汐里さんや、私が、いつ死ぬのか分からないと、一緒ですよ。肝心なのは、どうなるか、じゃなくて、どうしたいか、だと思うんですけど……」
ドキッとした。
私は物事を杓子定規に捉えるところがある。
確かに海音は自分の口で、残されている時間が少ない、と言った。
でもその言葉を、そのまま受け入れてしまって良いのだろうか。
その事が、海音を諦める一因になるのだとしたら、それは海音の死を受け入れてしまったのと同じで、海音には希望がない、と決め付けている事になるのではないか。
どうなるか、じゃなくて、どうしたいか……
一番大事な事を理恵に教えられた気がした。
海音が言った事が全て正しい訳じゃないし、海音が決めた道が間違っていない、とも限らない。
漠然と生きていた私に、今を生きる大切さを教えてくれたのは、海音だった。
それならば、未来に希望を繋げる生き方を、私が教えてあげたって良いと思う。
たとえ、明日が迎えられなくても……
「汐里さんが居なくたって、仕事はなんとかなりますよ。それに自分が思っているほど、周りの人は汐里さんの事、気にしてないですしね」
理恵の目をじっと見つめた。
視線を感じたのか、理恵も見つめ返してきた。
理恵がニヤリと笑った。
釣られて私も笑う。
「そっか、自分が思うほど頼りにされてないか……」
「はい、そうだと思います。一度全部捨ててみたらどうですか、残り物は全部私が頂きますので……」
理恵の棘のある言い方が、心地よく感じられた。
仕事の事も、家族の事も、これまでに築き上げて来た事も、全部取っ払って、思うがままに生きるんだ、と思ったら、背中に羽が生えたように身体が軽く感じられた。
韓国料理店の会計を私が済ませて店を出ると、理恵が、「もう一軒行きますか?」、と言ってきた。
私はお釣りに貰ったお札を財布に仕舞いながら、「そうね」、と生返事をする。
お釣りの千円札三枚が、財布の中の何かに引っ掛かってなかなか収まらず、財布を広げて中を覗いてみると、折曲がった領収証が出てきた。
領収証には、「ゲストハウス福木」、と書かれている。
沖縄へ行った時に泊まった宿の領収証だった。
フクギ並木の側にあったから、福木、と名付けたのだろう。
しかし、印刷されている文字を良く見てみると、妙な違和感が漂う。
一瞬、おかみさんが書き間違えたのだと思った。
でも、ゴム印で押された文字だからそんな筈はない。
インクの擦れもなく、クッキリと認識できる。
領収証に書かれていた文字は、ゲストハウス福木ではなく、福本だった。
はっとした。
点と点が繋がって、線になったような気持ち良さが湧いてきた。
海音に会えるかも知れないと思って出掛けた沖縄旅行。
偶然、空いていて宿泊する事になったゲストハウス。
海音の母親が営んでいる宿。
部屋に漂っていた柑橘系の匂い。
海音の身体から漂っていた香り。
おかみさんの微笑み。
海音の笑顔。
ゲストハウス福本…… 福本海音。
私は図らずも、海音の実家に泊まっていたのだ。
不思議な力に引き寄せられている気がした。
抗いようの無い不思議な力に……
「理恵ちゃん、ごめん、今日はこれで帰るわ、色々と有難う」
私は理恵に別れを告げた。
「行ってらっしゃい! マンションの鍵は、私が預かりますよ」
理恵が悪戯っぽく笑ったので、私も笑い返した。
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