繋がっていた細い糸

 「いらっしゃーい」

 建物の奥から、男の人の声が聞えた。

 聞き覚えのある甘い声、心臓がドキドキと音を立てているのが分かった。



 沖縄には、昨日の夕方入っていた。そのまま備瀬まで行こうと思った。

 だけど飛行機に乗って、身体はあっという間に沖縄まで来てしまったが、まだ心が着いてきていないような、そんな気分になった。

 だから、心がこちらへ着くのを待つ為に、那覇市内のビジネスホテルに一泊する事にした。


 国際通りにある、これと言って目立つ訳ではない居酒屋に入った。

 店を選んだ決め手は、シーサーの置物とオリオンビールの提灯だった。

 そこで生ビールを飲み、海音との出会いから今までを振り返り、心が到着するのをじっくりと待った。


 沖縄民謡が流れるお店で、何時間か過ごした私はようやく辿り着いた心とともに、朝一番のバスを乗り継いで、備瀬へ向かった。

 この前来た時とは違って、数時間後には海音に会える、と言う状況だったから、窓の外に拡がる美しい景色なんて、ちっとも心の中に入って来なかった。


 私を見た海音はどんな反応をするのか、そして何から話せば良いのだろうか、頭の中はそんな事で埋め尽くされ、三時間あった移動時間も、あっと言う間に過ぎていった気がする。

 

 この感覚は、海音が入院していた病院を訪ねた時と似ていた。

 でも明らかに違う事がひとつある。それは覚悟だ。

 絶対に引き下がらない、私はその決意を胸に秘めてやって来た。


 会社からは一ヶ月の休暇を貰った。本当は辞めるつもりで退職届を用意して、上司へ相談しに行ったのだが、あまりに突然の事だったせいか、慌てふためいた上司は、さらに上役へと相談し、結局、社長のところまで話が飛んで行って、とりあえず一ヶ月の休暇、と言うところに落ち着いている。

 この先、どうなるかは分からない。


 川崎のマンションはそのままにしてある。

 持ち家だから家賃が掛かる訳では無いし、沖縄へ引っ越す事になったら、賃貸物件として誰かに貸す事だって出来る。


 両親にはまだ何も言っていない。

 実行へ移す前に反対されたら、それを押し切る為に無駄なエネルギーを使わなければならず、推進力を削がれるからだ。

 家族には結論が出てから報告する、それでなんだかんだと言われたら、だんまりを決め込む。私だってもういい歳なんだから……


 結局、会社は休暇で、住んでいる所はそのまま、家族には事後報告……

 絶対に引く事は出来ないのだ、と退路を断って来たつもりだったが、もしも海音に拒絶されたとしても、帰る所はかろうじて残されている。


 だけど、私の心は決まっている。

 たとえ海音に断られたとしても、認めてくれるまで沖縄を離れるつもりは無い。

 だって、いくつもの奇跡が積み重なって、この時を迎えているのだから……


 初めて海音に出会った奇跡に始まって、たった一席だけ空いていた沖縄往きの航空券、満室ばかりだった備瀬の宿で一部屋だけ空いていたゲストハウス、それが海音の実家だったなんて、奇跡としか言い様が無いではないか。

 私は細い、細い、クモの糸よりもずっと細い糸を手繰り寄せて、ようやくここまで辿り着いたのだ。もう逃げる訳にはいかない。



 スリッパの足音が近づいて来た。

 心臓が早鐘を打つ。

 「汐里……」

 「あら、いらっしゃい」

 二つの声が同時に聞えた。


 麦わら帽子を被り、大きなスーツケースの傍らに立っている私を見た海音は、表情を無くしたまま呆然と立ち尽くす。

 一方で、背後から現れた黒いTシャツに、オレンジ色の短パンを履いている女性は、ニコニコと笑いながら近寄ってくる。この女性はゲストハウス福本のおかみさんで、きっと海音の母親だ。


 「また来て下さったのですね」

 「はい、暫くお世話になりたいのですけど、お部屋って空いていますか?」


 私は、海音の存在を無視するかのように、おかみさんに話し掛けた。

 「大丈夫ですよ、一部屋くらいならいつでも空いていますから…… この間と同じ部屋でいいですか?」


 にこやかに笑った顔がとても親しみ易さを漂わす。そうだ、前に来た時もそうだった。突然現れた私を、優しく受け入れてくれて、夏休みにお婆ちゃんの家へ行った時のような懐かしさを感じさせてくれた。


 縁側の着いた部屋へ案内してくれて、庭にあるハンモックを自由に使っていいよ、と言ってくれ、一人で寂しい夜を過ごしていた私の話し相手になってくれた。

 初めて会ったのに、ずっと前から私の事を知ってくれていたような、そんな温かさを感じさせてくれる人だった。


 「ハイ、同じ部屋がいいです」

 おかみさんに笑顔を返した。

 

 「ちょっと、待って、この間ってどういう事、同じ部屋って……」

 海音は、私がここを訪れた事を知らない。

 それからの暫くは、色んな説明に追われた。


 海音には、私がゴールデンウィークに、たまたまこのゲストハウスに宿泊した事を話し、おかみさんには、私と海音の関係を伝えた。

 海音との関係の深さは、そこまで詳しく説明した訳ではない。

 川崎の居酒屋で知り合い、意気投合して遊ぶようになった。

 同棲していた事と、海音が私の元を去った事は、端折った。

 でもおかみさんは、何となく私と海音が男女の関係だった事を分かっていたような気がする。


 「折角来て下さったんだから、どこかへご案内したら」

 おかみさんは、海音にそう言って、二人で話しをするように促した。

 きっと、実家へ帰ってきた海音を、突然私が訪ねて来た、という事は、何か訳があるのだろう、と察したのだと思う。


 海音は心の整理がついていないようだった。

 それは仕方のない事だ。

 都会での暮らしに決別して故郷へ戻り、母親と二人で静かに過ごそうと思っていた所へ、突然、縁を断ち切った女が現れたのだから……


 私だって、きちんと心の整理がついている訳ではない。

 私が海音の事を思う気持ちは揺るがないが、海音にとって、私がどれ程の存在なのかは分からない。

 海音が私の事を大切に思ってくれている、と言うのは単なる私の思い過ごしで、本当は数多くいるガールフレンドの中の一人だった、という事もあり得る訳だから。

 私は、海音の表情の変化を必死に読み取ろうとした。

 海音の顔には、明らかに戸惑いの色が見える。

 じっと海音の瞳を見つめた。

 お願い、私の気持ちを受け入れて! そう念じて、海音の瞳を見つめた。


 「それじゃぁ、ちょっと出かけてくるわ……」

 海音は少し硬かった表情を、無理やり解すように頬を緩める。

 そして私のスーツケースを部屋の奥に運び、何も言わずに外へ歩き出した。私の手を引いて……

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