終わりは次への始まり

 備瀬のフクギ並木までは、那覇空港からバスを乗り継いで、三時間ほど掛かった。


 レンタカーを使ったほうがきっと楽なのだろうが、私はペーパードライバーだから、運転をするのが怖かったし、バスを乗り継いで行ったほうが旅の風情がある、そんな気もしていた。


 ここへ辿り着くまでの道すがら、バスの車窓から目に飛び込んで来た、青い海や白い砂浜は、心に束の間の安らぎをもたらしてくれたが、いざ目的地が近づいてくると、胸の鼓動が早まり、何とも言えない緊張感に苛まれる。


 そこへ行けば海音に会える、という根拠の無い確信は揺らぎ始め、やがて、会える筈が無い、という絶望的な思いに変わっていく。

 冷静に考えれば、それが正しいのだと思う。

 それは分かっているのだが、今出来る事はこれくらいしか思い浮かばない。

 それならば、動くしかない。僅かでも可能性がある限り……


 フクギ並木は有名な観光スポットだと聞いていた。だから観光客目当てのお土産屋などが数多く立ち並ぶ、雑然とした雰囲気を想像していた。

 ところが実際に来てみると、小さな商店が数軒あるだけで、どちらかと言えば素朴で、少し時代を遡ったような、そんな感じがする場所だった。


 私は散策エリアの地図が描かれた案内板を横目して、どこを目指す、という言う事もなく歩き始めた。海音の幻を追い求めるように……

 

 並木道に入り、フクギの葉をまじまじと見つめた。

 海音はフクギの葉が好きだ、と言っていた。

 小判型をした緑色の葉っぱは、しっかりとした厚さで、柔らかな光沢を放ち、見ているだけで心が落ち着く。一本の木を覆い尽くすようにぎっしりと茂る葉は、生命力の強さをも感じさせてくれた。

 私はフクギの葉を一枚摘みとって、ポケットに仕舞った。


 日向を歩いていると、汗が噴き出すような暑さだった。

 それでも並木道の中に入ると、フクギの葉が照り付ける太陽の光を遮って木陰を作り出し、涼しい風を運んでくれる。


 私は風に向って歩いた。

 そこは、時の流れを忘れそうになる空間だった。

 時折、観光客とすれ違う事はあるものの、騒々しい感じはなく、静けさが漂う。

 どれくらい歩いたのだろうか、僅か数分だったような気もするし、数時間そこを彷徨っていたような気もする。並木道の中を流れる、ゆったりとした時の流れに、私は身を委ねた。


 フクギ並木を抜けると、空の色を映し出すコバルトブルーの鮮やかな海が目の前に広がった。

 少し喉が渇いたので、海沿いにあった自動販売機で冷たい飲み物を買って、古ぼけたベンチに腰を下ろす。

 降り注ぐ太陽の光を身体全体に浴びて、海をぼんやりと眺めていたら、この場所に自分が居る事が不思議に思えて来た。


 一人で出張へ行く事は数え切れないほどあったが、一人旅をしたのは恐らくこれが初めてだ。一週間前に突然思い立ち、何の迷いもなく動き出して、今この瞬間、遠く離れたここに居る。


 海音と出会うまでの生活パターンを思い起こせば、信じられない程の行動力だ。

 行ってみたいところ、やってみたい事、食べてみたい物、そういった欲求は人並みにあったと思うのだが、いつか、と先延ばしにして、実現した事など何一つ無かった。

 そんな私が…… と思うと、何だか笑えてくる。


 結局、海音に会う事は出来なかった。

 「そりゃ、そうだよね……」

 私はひとり言を呟いて立ち上がった。

 そもそも海音を探そうと言う気持ちが、どれほど本気だったのか、今となっては怪しい。

 だけど、何故だか心の中はスッキリとしていた。

 やれる事はやったんだ、そんな思いが海音への未練を浄化してくれたのかもしれない。


 翌日の飛行機で帰る予定だった私は、宿泊予約を取っていない事を思い出し、いくつかの宿へ電話をしてみた。

 最初は那覇へ戻って、ビジネスホテルに泊まる事を考えていたのだが、もう少しここの空気に触れていたかったので、備瀬周辺の宿に電話を掛けた。

 三軒、掛けたがどこも満室だった。

 もしも次の宿で駄目だったら、ここは諦めようと思っていた。

 すると四軒目の宿に空き部屋があった。電話の応対がとても親切で明るい感じだったので、私はその宿に決めた。


 フクギ並木の中にひっそりと佇むそこは、ノスタルジックな雰囲気が漂うゲストハウスだった。古民家風の小さな建物が四棟、向き合うように建っていて、真ん中には芝生の庭が広がっている。庭には、ベンチとハンモック。部屋には縁側があって、ここにある全ての物が、周りの景色に溶け込むようだった。


 出迎えてくれたおかみさんは、とても気さくな人で、夕食後、部屋の縁側で、ぼーっと夜空を見上げていた私のところへ、泡盛と氷を持って来て、話し相手になってくれた。


 なんだかとてもほっこりとした気分になった。

 おかみさんの、ふんわりとした優しさに包まれながら話をしていたら、好きな人にふられた事を口にしていた。

 笑顔で話すつもりだった。それなのに、おかみさんが、うんうんと頷きながら聞くものだから、感情が込み上げてきて、気がついたら涙が溢れ出していた。


 「だいじょうぶよ、あなたは素敵な女性だから……」

 おかみさんは、私の肩を優しく撫でながら、慰めてくれた。

 笑顔が素敵なおかみさんで、会ったばかりの人なのに、ずっと前から知り合いだったような気分になった。


 そう言えば部屋に漂っていた匂いが、海音の事を思い出させてくれた。

 それは、部屋の匂いと、海音の身体から漂っていた香りが似ていたからかもしれない。柑橘系の爽やかな香り……

 多摩川の土手で抱き寄せられた、あの日の記憶が蘇ってくる。


 フクギ並木をあてもなくと歩き回り、綺麗な海をぼんやりと眺め、ゲストハウスでおかみさんとお話をして、これと言った観光をする事も無く、沖縄を離れる事になった。

 空港のお土産屋さんには、シーサーの携帯ストラップがたくさんぶら下がっていた。赤と黄色のカラーリング、私が持っている物とよく似ているシーサーを手に取ってみたが、結局、買わなかった。


 空港の天井から吊り下げられている、めんそーれ おきなわ、と書かれた横断幕を見上げて、一度大きく深呼吸をした。

 海音に会う、と言う元々の目的を果たす事は出来なかったが、海音が生まれ育った場所を訪れ、海音が好きだ、と言っていたフクギを実際に見ることが出来た。

 そして何よりも、海音に会いたい、という思いを、行動に移す事が出来た。

 それだけで、じゅうぶん満たされた気がする。


 いつか海音は言っていた。

 「いつかなんて、やって来ないと思うよ。今、動き出さないとね……」


 きっと、もう海音に会う事は出来ないのだと思う。

 でも、心の中の海音が私の行動を変えてくれた。

 それだけで何となく次へ進めそうな気がした。

 備瀬から持ち帰ったフクギの葉を見つめて、微笑んでいる自分に気づいた。

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