春の無い思い出



 海音が去って二ヶ月が過ぎた。


 憎らしいほど暑い夏に海音と出会い、秋から冬まで一緒に暮らして、沢山の幸せな時間を過ごしてきた。


 海音と一緒に居られたから、鬱陶しいと思っていた夏が輝いて見えた訳だし、海音が行こうと言ってくれたから、秋の紅葉を満喫する事も出来た。

 寒い冬だって海音に寄り添って歩けば、暖かく感じられたし、雪が積もったって海音にしがみついていれば、転ばずに歩く事が出来た。


 だけど、私と海音の思い出に、春は無い。

 手を繋いで歩く筈だった桜並木も、約束していたサーフィンも、あっけなく消えてしまった。


 私はあれから、海音と別れてしまった事を、消化しようと一生懸命に思考を巡らせた。ひとつずつ整理していって、どうやったって、こうとしか生きようが無かったんだ、と自分に言い聞かせ、頭では納得出来たつもりだった。


 でも心にぽっかりと空いてしまった穴はどうしようもなくて、いつも隣で笑っていた海音の温もりを消すのは、そんなに簡単ではなかった。

 ふとした瞬間に海音を感じ、それが幻だと気付くと涙が溢れる。

 そんな毎日を過ごしてきて、こんな日がいつまで続くのだろうと思った。

 頭と心が別の方向を向いていて、いつまで経っても前に進めていない気がした。


 結局、解決してくれたのは時間だった。

 過ぎていく時間は、少しずつだけど、海音の存在を滲ませてくれる。

 誰も居ない家に帰った時、寂しくて流していた涙も、朝、目覚めた時に枕が濡れている事も、今はもう無い。

 寂しさと悲しさを引き換えにして、海音と出会う前の日常が少しずつ戻ってきた。

 私の心に空いてしまった穴は、この先も、少しづつ小さくなっていくのだろう。

 そしていつかきっと、その穴は塞がって小さな点になるのだ。


 どんな事があろうとも、日は昇り、日は沈み、また新しい朝がやって来る。

 私がどんな思いを抱えていようが、自然の法則の中にあっては、そんな事はお構い無しなのだ。明けて欲しくない夜も、沈んで欲しくない太陽も、待ったなしで進んでいく。心が立ち止まっていたって、季節は巡る。世の中はそうやって回っていくんだ。恋愛経験が乏しい私は、そんな事を教えられた気がする。


 最近、気付いた事がひとつある。

 きっと海音にはこうなる未来が見えていたんだ、と。

 そして私には見えていなかった、そう言う事なのだと思う。

 ところで海音は今、何を思っているのだろうか?

 私の心に空いた穴は、まだ完全には塞がっていない……



 ゴールデンウィークを間近に控えたある日、ソファーに座ってテレビを観ていた。

 テレビでは旅番組が放送されていて、今からでも間に合うお薦めスポット、と言うのが紹介されていた。


 都内の高級ホテルで豪華に過ごすプランだとか、谷間の平日やゴールデンウィーク前後の平日を絡める事で、お得に利用できるプランなんかが紹介されていて、その都度、出演しているタレントが大げさに驚いていた。

 北海道や、四国の芸術の島や、桜が満開の東北なんかもテレビには映っていた。


 シングルになった私は、どこかへ出掛けようだなんて思ってもいなかったので、大した興味を持つ事も無く、ぼんやりと見ていただけなのだが、沖縄の首里城跡が映し出された瞬間、テレビの上に置かれているシーサーが、ふと目に留まった。


 同期の沙智子からお土産で貰ったシーサーだ。

 少し角ばっていて、全身が赤くて、毛の部分が黄色い、ひょうきんな顔のシーサー。元々、携帯ストラップだったから、小指の先ほどの小さい物だが、その可愛らしさが気に入って、いつも目に付くところへ置いていた。


 そう言えば一緒に暮らしていた時、海音がこのシーサーをじっと見つめていた事があった。

 「可愛いでしょ」、と私が言うと、「これ、いつ買ったの?」、と言われて、「入社して何年目かに貰った物だから、十年くらい前かな」、と答えた事がある。

 海音は笑みを浮かべて、ふーん、と言っただけだったが、何故かこの時の会話が鮮明に蘇って来た。


 テレビの上のシーサーが、海音との思い出を呼び起こす……

 心に空いた穴は塞がりかけたと思っていたのに、どうしようもなく海音に会いたいと言う気持ちが湧きあがって来た。

 行動力の無い私の何がそうさせたのかは分からないが、気がついたら航空会社のサイトで、沖縄行きの航空券を検索し始めていた。だけど、別に本気で沖縄へ行こうと思った訳ではないと思う。


 沖縄行きの飛行機は、どの便も満席だった。

 やっぱりゴールデンウィークはみんな旅行へ行くんだな、そう思って諦めかけたが、テレビ番組で言っていた事を思い出して、ゴールデンウィーク最終盤の日程を調べてみた。

 すると、最終日の前日、朝一番の出発便に一席だけ空席が見つかった。

 私は、直ちにそのチケットを予約した。たぶんそれは、衝動だと思う。


 沖縄へ行ったら会えるかも……

 そんな思いが突然、湧きあがってきたのだ。

 海音は備瀬のフクギ並木の近くで育った、と言っていた。

 きっと、備瀬に帰ったんだ。


 それはほんの思いつきで始まった事だが、航空券の決済が完了する頃には根拠の無い確信へと変わっていた。


 きっと海音は、沖縄にいる……


 心の片隅で燻っている海音の存在に決着をつけるには、もう一度会わなければいけない。会って何が出来るのかは分からないが、別れるにしても、そうではないにしても、もう一度会わなければ……


 私は沖縄へ旅立つ事を決めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る