別れはある朝突然に

 終わりは突然、訪れた。

 

 寒さが緩み始め、お日様が出てくると袖捲くりをしたくなるような、そんな穏やかな季節の出来事だった。

 たんぽぽの花が咲く多摩川の土手を、手を繋いで歩いたら気持ち良いだろうな、そんな姿を思い描きたくなる日に海音は去って行った。


 「ごめんね、汐里」

 最後の言葉は、これだけだった。

 別に喧嘩をしたとか、そう言う事では無い。きっと私の価値観の中に閉じ込めようとしたから、それが原因で息苦しくなってしまったのだと思う。


 海音の居なくなった部屋は、無機質に感じられた。

 海音と暮らすようになってから、毎週金曜日の帰り道は、駅前の花屋に立ち寄って旬の花を買っていたが、それを活けていたガラスの花瓶は空っぽのままだ。

 お揃いのマグカップも、色違いの歯ブラシも、二枚並べて掛けていたフェイスタオルも、今は私の分しか使われていない。

 立ち上がった時に残るソファーのくぼみも、起き上がったときに出来るシーツの皺もひとつしか無い。

 部屋から笑い声は消えた。部屋の中に響く音はテレビから聞えるガヤガヤした騒がしい音と、エアコンや洗濯機の不機嫌で耳障りな音ばかりで、温もりのある生の声が響く事は無い。

 いってらっしゃい、と声を掛けられる事も無ければ、ただいま、と言った所で、おかえり、と迎えてくれる声も無くなった。


 海音との正しい付き合い方は何だったのか、と今更ながら考える。

 目の前に居る海音を感じ、今だけを見つめて暮らしていれば海音がこの家から消える事は無かったのではないか、と考える事もある。

 もしかしたら、海音がこれまでに付き合ってきた女性達も私と同じ末路を辿ったのでは無いか、と妄想を膨らませれば、それが事実のような気がしてくる。


 悪いのは私だ。たぶん……

 結婚とか、出産とか、そう言った夢を見た私が悪いのだ。

 でも、目の前に居る海音だけを見つめて生きていったら、いつまでも幸せでいられたのだろうか……

 とてもそうは思えない。いずれ近い将来、終わりは訪れたような気がする。

 やっぱり、、なんてあり得ないのだ。


 私と海音の愛のカタチは、いつ壊れてもおかしく無い不安定なものだった。

 だから安定した愛のカタチを築こうとした、そして失敗した。

 どの道を進もうとも、私と海音に永遠の幸せなんて来なかったんだ、そう言う気持ちがどこかにあったから、去ってゆく海音を私は止める事が出来なかった。


 あの日、会社から帰ったら、海音はもう居なかった。

 前の晩に結婚の事を話したら、いつものように海音がはぐらかしたので、いつもより少しキツめの言い方をしたのが事の始まりで、それでも、いつものように受け流してくれると思っていたのに、あの時は深刻な顔をして黙り込んでしまった。

 それから会話は無くなり、翌朝、いってらっしゃい、と見送られた後、「ごめんね、汐里」、という最後の言葉を投げかけられた。


 その言葉を聞いたとき、海音が居なくなる、という予感がしていた。

 だけど私は、その予感を胸に押し留めて家を出た。

 一日中、海音の事が気になって仕方がなかったのに、気のせいだ、と自分に言い聞かせて、いつものように仕事をした。


 仕事がピークを迎えていたから、と言うのはある。

 でも仕事を放り出してでも、海音を放さない、と言う覚悟があれば、何とか出来た様に思う。

 だけど、そうしなかった……


 これで良かったんだ。

 あれから何度も自分に言い聞かせた。

 仕事が生き甲斐なんだと思って生きていけばいいんだ、海音と出会うまでは、私にはそういう生き方しかないのだ、と思っていた訳だし、海音と言う存在と出会えて刹那の幸せを感じられただけでも人生の彩りになった、と思えば、何も無いよりは良かったじゃないか、と前向きに考えられる。


 サイドボードの上には、パラグライダーをした時の写真が飾られている。

 私を後ろから抱きしめる海音……

 二人ともゴーグルをしているが、口元を見れば笑っているのが良く分かる。

 着地して、尻餅をついた所へ駆け寄ってきた拓ちゃんが、撮ってくれた写真だ。

 海音との思い出を振り返ると、笑いと涙が同時に湧いてくる。


 海音は、私に笑顔の思い出だけを置いて、去っていった。

 結局、海音の過去を知る事は殆ど出来なかった。


 高校時代に水泳をしていた事、大学に入って自転車で北海道を一周した事、社会人になってトライアスロンに挑戦した事、断片的には話してくれた。

 大学を卒業して、証券会社に就職した事も話してくれたが、会社をいつ辞めたのか、何が理由だったのかは教えてくれなかった。


 「僕の能力が足りなかったんでね……」、と自虐的に言ったが、それは違う気がする。フリーターになった理由も、「なかなか良い就職先が見つからなくてね……」、と苦笑いしていたが、これだって違うと思う。

 海音ほどの能力があれば、活躍する場所なんていくらだってあった筈だし、必要とする人はたくさん居た筈だ。

 海音はそれらを拒絶したんだ……

 何故?


 海音は証券会社に勤めていた時の貯金と、週三回のアルバイトで稼いだお金、それと退職金? それで生活していた。

 週三回のアルバイトでは大した稼ぎにならないと思う。

 どれだけの貯金があったのかは分からないが、いずれは底を尽きる筈だ。

 それなのに、稼ぎを増やそうとは思わずに、ミニマリストと言うシンプルな生き方を選択し、自由気ままに生きてきた。

 将来の事を見つめようとしない海音の生き方が不思議でならなかった。


 私の元を去った事、それから将来に目を向けない事、そこには何か共通する大きな理由があるのではないか?

 そう思ったが、もはや知る術が無い。


 海音はバイト先を辞めていた。消息はつかめない。

 どこで、どんな暮らしを始めたのか、思いを巡らせる事は出来ても、実行に移す事は出来ない……

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