愛する人に残すもの ☆
「うーん、良い状態とは言えないですね、明らかに病状は進行しています。それも悪化の度合いが加速しているように見受けられます。一度、入院して治療を受けてみてはいかがでしょうか。根本的な治療にはならないと思いますが、進行のスピードを遅らせる事は出来ると思いますよ」
白髪交じりで、銀縁眼鏡、神経質そうに見える医者は、いつものように、淡々とそう言った。とても患者の事を気遣っているようには思えない言い方だが、逆にこの医者の誠実さを感じる。
「僕は、あとどれくらい生きられるのですか?」
「このままだと、突然、と言う事もあり得ます。楽観的にみても、数年先には、かなり行動が制限されるようになってしまうのではないかと」
突然、というのは別に良い。
生きている者は皆、突然終わりを迎えるのだから。
それよりも、楽観的にみても数年先に、という言葉に、終わりの近づきを実感した。
僕に残されている時間は少ない。
病院を出て、気がついたら海芝浦駅に来ていた。
何かに導かれているようだった。
駅に隣接している工場の社員以外は駅構外へ出ることが出来ない、というこの駅のホームから、ぼんやりと海を眺める。
遊びに行く海はいくらでもあるが、心に溜め込んだ思いを捨てられるのはここしかない。
沖に見える大きな橋と、海を囲むように聳える工業地帯、この閉鎖された空間に広がる海が何故だか心の拠り所になっている。彼方に太陽が沈み、オレンジ色の光が水平線の上に広がる。一日の終わりを感じさせる美しいひととき、残りの人生をどう生きるべきか、考え始めた。
死にゆく事に悲しみは無い。だけど、残される者の事を考えると胸が疼く。
果たして何を残していけば良いのだろうか……
全てを打ち明けてしまったら、愛する人が、未来の無い人間の残り僅かな人生を背負う事になってしまう。この世を去った後に、重荷を背負わせてしまうのは、心が痛む。自分が弱っていく姿を見られるなんて、どうしたって受け入れられない。
愛する人に残すべき思い出は笑顔だけで良い、悲しい思い出なんて、残してはいけないのだ。
やはり、このまま姿を消すべきか……
一人の女性を愛してしまった事に、心が痛んだ。
鶴見行きのレトロな車輌がホームに入って来た。
このままどこか違う世界へ連れて行ってくれないだろうか……
肌を刺すような冷たい空気に背中を押されて、暖かい車内へ身体を滑り込ませた。
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