緩やかな時の流れ


 海音は家から車で十分ほどの距離にある病院に入院している。


 私と真琴は限られた面会時間の中で海音と会って大切な時間を過ごす。

 病室の海音はやつれてしまい、以前のような男っぷりは影を潜めてしまったが、時折見せてくれる笑顔は、元気な頃の姿を思い出させてくれる。


 限られた空間で、限られた時間にしか会えないが、それでも、そこには小さな幸せがあった。

 未来に希望を見出す事が出来ない、ちっぽけな幸せだが、それでも明日を見つめさえしなければ、充分に心を満たしてくれる。


 楽しい出来事が沢山あったら、きっと目の前の小さな幸せに気付く事は出来ない。だけど、何も無ければ、些細な出来事が幸せに感じられるのだ。

 海音と過ごす限られた時間は、小さいけれど大切な事の連続だった。

 海音と挨拶する事、手を握る事、僅かな食事を食べさせてあげる事、微笑を交し合う事…… たくさんの会話をする事は難しいけれど、海音の目と仕草を見たら大抵の事は理解できる。

 私と海音の関係は、これまでとは違った、また新しいステージに進んでいる。


 同じ日々の繰り返し、それは今の私にとって決してマイナスではなく、どちらかと言えば、明るい響きを持つ。衰えた海音の体を見つめ、これ以上悪くならないように祈り、時間が緩やかに流れてくれる事をひたすら願った。


 ある日、浩二くんがお見舞いに来てくれた。

 浩二くんが来ると、海音はいつもはにかんだように笑い、病室が俄かに明るくなっていく。

 病室を訪れた浩二くんは、いつも元気一杯で、海音をからかう。

 「いつまでもサボってないで、早くゲストハウスの仕事に戻れよ」、とか、「今日は海音好みのちゅらかーぎーなネエネエが来てたぞ」、とか。

 そう言われた海音は、苦笑いをしながら頷く。


 海音も黙っては居ない。

 私に近づくように合図して、耳元で囁く。

 「遊んでないで、早く彼女を作れ、早く結婚しろ」、と。

 そう言われた私は、それをそのまま浩二くんに伝える。

 浩二くんは、頬っぺたを膨らませて、「僕だって、早く結婚したいよ…… でも相手が居ないんだから仕方ないだろ……」、と口を尖らせる。

 そんなやり取りが、病室の空気をまた一段と明るくしていく。

 

 幼い頃から一緒に遊んでいた二人、そこには私が立ち入る事が出来ない空気感がある。私にとっては、それが羨ましくもあり、微笑ましくもある。

 きっと海音が入院している事を知ったら、ここへ駆けつけたい人は山ほど居るだろう。海音はたくさんの人と、独特の空気感を持って付き合ってきた。

 だからそう言った人達がお見舞いに来てくれれば、病室はもっともっと華やかになるような気がする。

 だけど海音は、誰にも伝えないで欲しい、と言った。

 海音にしてみたら、やっぱり今の姿は見られたくないのかもしれない。


 面会時間が終わって帰るとき、浩二くんはいつも、「勝手に死ぬなよ」、と言って病室を出て行く。

 初めてその言葉を聞いたときは、ドキッとしたが、最近は私も言うようになった。


 「行く時はちゃんと言ってよね。川崎の時みたいに、黙って行かないでよ」、と。

 そして、海音は親指を立てて笑う。

 

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