変わり行くもの
一月の終わり、今帰仁の桜の蕾が綻び始めた。
一年前のこの時期、産まれて三ヶ月の真琴を抱いて、今帰仁城跡の桜を眺めた日の事を思い出す。
鮮やかなピンク色の桜の下、真琴を抱いた海音の姿を写真に収めたあの日、あの時は海音の心臓もまだ元気に動いていて、歩く事も、階段を上る事も、何て事無く出来ていた。
あれから一年、空の青さも、透き通る海の美しさも、白い雲も、砂浜も、風にそよぐフクギ並木も、何もかもがそのままなのに、海音だけが変わってしまった。
海音は、もうベッドから起き上がる事すら出来ない。
必死に心臓を動かして、一日でも長く生き、真琴の心に自分の姿を刻み込もうとしているのだろうが、恐らくその思いが通じる事はないだろう。
海音は必死に生きている。
今日と言う日を悔いなく生き、明日への扉を開く為に……
でも、それは私が海音に対して抱いている妄想なのかもしれない。
最近の海音は、心がそぞろ歩きしているように見えることがある。
私の目の前に居るのに、なんだか気持ちはどこかを彷徨っているようで、私が今日起きた事を話しても、何となく上の空で、聞いているのかどうか、怪しいことが多くなった。
それでも、いつもの言葉を掛けて帰ろうとすると、変わりなく親指を立てて、大丈夫だよ、と伝えてくれる。それで少し安心するのだが、その反面、本当に明日会えるのだろうか、と不安にもなる。
二月に入ると海音の病状は、さらに悪くなった。
ひと呼吸する毎に、寿命が磨り減っていく…… そんな風に感じられる事もある。
海音が苦しそうな呼吸を繰り返すと、それを和らげる為の薬が投与され、それによって眠りにつく時間が多くなっていった。
担当医が病室にやって来ると、私はその顔色を伺う。
延命治療をするかどうか、その最終決断を迫られるのではないかと、怯えているのだ。
海音の担当医はいつもにこやかな人だ。海音が緊急搬送された時でさえ、険しい顔はせずに、落ち着いた様子で対応してくれた。病室へやって来る時も笑顔のまま……
「福本さん、ご機嫌はいかがかな?」
そう言って、明るく接してくれる。そしてどんな状況でも、「うん、大丈夫」、と言って病室を出て行く。看護師さんたちにも、海音は気に入られていて、いつも、ちやほやされている。
担当医の穏やかな顔や、看護士さんたちの態度を見ていると、まだまだ大丈夫だ、と言う気分になってくるが、二人きりで向き合うと、やはり現実に引き戻される。
海音の命は、ゆらゆらと風にたなびく、蝋燭の炎の様に頼りない。
消えて欲しくないと言う思いと、苦しみから解放してあげたい、という思いが心の中で交錯する。
それでも、海音は懸命に心臓を動かしている。
その姿を心に刻み込もうと、私は直視する。
海音の頬が緩むと、私の心はパッと明るくなり、辛そうな呼吸をすると、心がざわざわと音を立て、まばたきをしたら、海音の言葉に耳を傾ける。
海音は生きている。どんな状況になろうとも、私と海音は通じ合っているのだ、そう自分に言い聞かせているが、溢れる涙に耐え切れなくなって、顔を伏せてしまう。
色んな思いが胸の中を行き来していて、呼吸をするのが苦しくなる時もあった。
バレンタインデーの日、いつものようにベビーカーに真琴を乗せて、病室を訪れると、めずらしく海音は窓の外の景色を眺めていた。
病室の窓から見える寒緋桜が、鮮やかなピンク色の花を咲かせている。
空はどんよりと曇っていたが、それが余計に美しさを引き立てているように思えた。
きれいだね、と私が話しかけると、うん、と頷いて海音は目を細めた。
いつもより呼吸が穏やかだったので、私はほっと胸を撫で下ろした。
酷く苦しそうな日と落ち着いている日、これらを繰り返しながら、少しずつ状態は悪くなってきている。
海音が窓を開けて欲しい、と言ったので開けてあげると、少し湿り気を含んだ温かい風が病室へ吹き込んできて、海音の前髪を揺らした。
病室の中の淀んだ空気が換気されて、南の島の風情が漂う。
海音は静かに目を閉じて、眠りについた。
私はベビーカーを海音のベッドの横に置いて、その隣に腰掛ける。
お見舞いに来ても、海音は眠っている事が多いので、私は寝顔をちらちらと見つめながら雑誌を読む。ただそれだけなのだが、真琴と一緒に三人で居られるというだけで心が落ち着く。
真琴が泣き声を上げると、海音はぼんやりと目を醒まし、私があやしている姿を見て安心すると、微かな笑みを浮かべてまた眠りにつく。そんな些細な出来事が私の頬を緩める。
面会の終了時間が近づいて来たので帰り支度をしていると、海音が目を醒ました。
私はバッグの中からチョコレートが入った小さな箱を取り出して、海音に見せた。
「今日はバレンタインデーだから、置いてくね」
そう言って、ベッドサイドのテーブルの上に置き、箱の下にフクギの葉を挟んだ。
海音は小さく頷いて微笑む。
その瞳が少し潤んでいるように見えた。
「じゃぁ、また明日ね。分かっていると思うけど、黙って行ったら駄目だよ。行く時はちゃんと言ってよね……」
いつもの言葉を掛けて、私が帰ろうとすると、海音は小刻みに震える手で酸素吸入器を外した。
何か言いたい事があるのだな、と思ってベッドに近づくと、海音が微笑んだ。
「汐里、有難う……」
そう言って海音は、視線をチョコレートの小箱のほうへ移す。
それは、か細く、今にも消えてしまいそうなほど、弱々しい声だった。
「どういたしまして…… じゃぁ、また明日会おうね」
私は、笑顔を作って明るく答えた。
結局、これが最後に交わした言葉になる。
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