木漏れ日のように
その晩、病院から電話が掛かって来た。
私は真琴を抱いて、慌てて駆けつけた。
だけど、病院に着いた時、海音の息は、既に絶えていた……
海音と約束をしていた明日はやって来なかった。
終わりは、日常のふとした瞬間に訪れる。
枕元で最期の言葉を交わし、手を握って見送る、そんな別れ方はそうそうある事ではないのだろう。
私に延命治療をするかどうか、その決断をさせる前に海音は逝ってしまった。
きっと私を苦しませないように、静かに旅立ったのだと思う。
病室のベッドの上に横たわる海音は、苦しみから解放された穏やかな顔をしていた。潮風を頬に受けて目を瞑っていた、いつかの様なハンサムで爽やかな素顔だった。手の平はひんやりとしていたが、長い指はいつもと変わりなく柔らかかった。
「行く時は言ってね、って約束したのに……」
私は心の中で呟いた。
病室を訪れ、医師から臨終を告げられたとき、私の目から涙は零れなかった。
きっと、まだ現実として受け止めきれていなかったのだと思う。
それにこうなる事が、心のずっと奥のほうで分かっていて、気付かないうちに覚悟していたのかもしれない。
それは富江さんも同じだった。
呆然と立ち尽くして海音を見下ろす富江さんの姿は、全ての感情をどこかに置き忘れてしまったかのように静かだった。それでも表情は柔らかく、何となく納得しているようにも思えた。
海音の幼馴染の浩二くんが病室に駆け込んで来て、号泣する姿を目にしたとき、初めて海音が死んでしまった事を実感したような気がする。
「なんで勝手に行くんだよ!」
浩二くんは、大きな声で叫んだ。
「僕に彼女が出来て、結婚して、子供が産まれて…… そうしたら真琴ちゃんと友達になって…… 僕と海音みたいに遊ぶんだろうなって…… それを二人で見守ろうなって…… 約束したじゃないか……」
浩二くんは海音にすがる様に泣いた。
浩二くんだって、心のどこかでは、こうなる事が分かっていたと思う。
だけど、こうでもしないと気持ちの整理が出来ないのだろう。
浩二くんは声に出して、ずっと泣いている。
まるで、泣きじゃくる子供みたいに……
そんな姿を見ていたら、胸が張り裂けてしまいそうな、悲しい思いが込み上げて来た。だけど、それとは別に、最後まで笑顔で生き続けてくれた海音を称えたい気持ちも湧きあがってきて、二つの感情が心の中でぶつかり合った。
いつまでも海音に生きていて欲しかったと言う気持ちと、私達のために最後まで一生懸命頑張ってくれたのだから、と言う気持ち、その二つが押し合って、絶妙なバランスを取っているような、不思議な気分になった。
遺体の処置をする為に私達は一度病室の外に出された。
病室の中では何名かの看護士さんが作業をしている。
何だか海音が私達の人では無くなってしまったような気分になり、病室前の廊下には重く沈んだ空気が漂い始めた。
すると突然、ベビーカーに乗っていた真琴が笑い出した。
それを見た富江さんの頬が、じわじわと緩んだ。
私の心にも、微かな光が差し込んで来た。
それは、雨上がりの森の中に差し込む、木漏れ日のように柔らかい光だった。
悲しまないで、と言う海音の気持ちを汲みとった真琴が、笑ったのかもしれない。
病室から霊安室に運ばれた海音は、凛とした佇まいで、旅立ちの準備が全て整っているように感じられた。
「海音、良く頑張ったね、幸せにしてくれて有難う」
心の中で話しかけると、目尻から一筋の涙が流れ落ちた。
頬を伝って流れる涙がとても温かかった。
海音の枕元には、フクギの葉が一枚置かれていた。
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