甘いくちづけ

 年の瀬を控えた十二月、ゲストハウスで利用しているボイラーが壊れた。

 ここ何年かメンテナンスを怠っていたせいで、他にもいくつか修理の必要なところがあったので、この際だからと、まとめて修理をお願いする事になった。

 その為、ゲストハウスは一週間の休業となる。


 海音は暇を持て余していた。

 庭のハンモックに揺られながら本を読んだり、釣竿を肩に担いで海へ出掛けて行ったり、富江さんがやっている家庭菜園を手伝う事もたまにあった。

 でも、本を読んでいると言っても大抵は顔の上に伏せてあるだけだったし、釣った魚を持ち帰った事は一度もなく、畑作業用の長靴も手袋も大して汚れていない…… 

 何かをしている、と言うよりも、何もしていない、と言ったほうが表現としては適切な気がする。

 


 海音が時間をもて余すなんて珍しい事だ。

 向こうで付き合っていた頃は、いつもどこかへ出掛けていたし、家に居る時だって、ぼーっと時間を過ごす、なんて一度も無かった。

 沖縄へ来てからは、出掛ける事こそ少なくなったものの、ゲストハウスの仕事を何かしらしていて、やっぱりいつも何か目的を持って動いていた。


 私の目にはその姿が、生き急いでいる、と映る事もある。

 だから、何かをすると言う訳でもなく、ただ時の流れに身を任せている海音の姿は新鮮でもあった。

 

 海音は、普段はお客さんと接する手前、朝起きたらすぐにシャワーを浴びて、身支度を整え、全く隙のない男に仕上がる。

 だけど休業中は朝、起きて来るのは遅いし、起きても寝癖がついたままだったり、パジャマのズボンの裾が捲れあがっていたり、とにかく隙だらけだった。


 そんな海音を見て、私はほくそ笑んだ。

 海音は川崎で同棲していた頃からそうなのだが、いつもピシッとしていて、全く隙を見せない、どの一瞬を切り取ったって絵になる、そういう男だ。


 それは私にしてみたら、彼氏として誇れる部分ではあるのだが、一緒に暮らしている身としては、もう少しゆるい部分を見せて欲しいという願望もあり……

 そんな海音が見せてくれた隙だらけの姿、それが妙に嬉しかった。

 もう私にとっての海音は、彼氏、ではなく、家族、なのだから。

  

 「どこか、行こうか?」

 仕事に目処がついた私が言った。

 海音があまりにも暇そうだったし、ゲストハウスの営業が再開されれば、丸一日掛けて遊びに出掛けられる日も、そう多くはなくなる。

 私の仕事のケリさえつけられれば、絶好の機会だと思った。


 「行こう!」

 海音はこの言葉を待っていたかのように、即答した。


 ゲストハウスが休業し始めてから四日目、私と海音は車に乗って出かけた。

 富江さんは、帰ってくる必要はないから泊まっておいで、と言ってくれた。 

 だけど、急に決まったお出かけなので、宿の手配などしていない。

 それ以前に出発する直前になっても、行き先さえ、まだ決まっていなかった。


 海音が作った朝ごはんを食べて、身支度を整え、そろそろ行こうか? と顔を見合せる。そんな感じで、備瀬を出発した。

 車で遠くへ出掛けるなんて言うのは、月に一度、海音の定期健診で那覇へ行く時くらいなので、遊びに出かけるとなると、なんだかソワソワしてくる。


 那覇の病院へ行く時は国道449号線に入り、名護を抜けて58号線を南下する。

 一方で近場でデートをする時は、505号線を利用する事が多い。

 そうは言っても、449号線と505号線は、元々は同じ道路で、本部町の浦崎と言う交差点よりも南側が449号線で、北側が505号線と呼ばれるようになっただけの事だ。どちらも結局は58号線に合流する。


 海音は505号線へ進路を向けた。近場のデート、例えば今帰仁城や、古宇利島のほうへ行くときのルートだ。だけど、行き先はまだ決まっていない。

 今日は病院ではない、遊びに行くんだ、そんな条件反射だけで、海音は505号線を選んだ、そんな気がしないでもない。


 「いつもは南方面だから、今日は北へ行ってみようか…… 汐里初めてだよね」

 今帰仁を走っている時に、海音が呟いた。

 私は海音とドライブに行けるというだけで、気分が高揚していたから、行き先はどこでも構わなかったのだけれど、「そうだね、行った事がないところへ行ってみたいな」、と調子を合わせた。


 「よし、それじゃぁ、最北端を目指そう」

 海音はそう言うと、505号線を離れて、屋我地島のほうへハンドルを切った。

 

 気のせいかもしれないが、空の青さが、いつもよりも濃く見えた。

 ところどころに浮かぶ小さな白い雲がくっきりと浮き上がって見える。

 わるみおおはし、と平仮名で書かれた橋を渡ると、生い茂る緑と、エメラルドグリーンの海が色彩に加わる。絶好のドライブ日和だ。


 運転している海音に視線を向けると、にこやかに微笑を浮かべながら、ハンドルを握っている。いつも目にしている光景だが、那覇へ健診に行く時とは明らかに違っていて、鼻唄でも聞えてきそうなほど、ご機嫌な様子が伺える。


 ふと視線を肩に向けると、葉っぱの切れ端が白いTシャツに付いていた。

 どこで付いたのだろう、と不思議に思いながらそっと摘み、摘んだ葉っぱを海音に見せると、照れ笑いを浮かべた。その笑顔に私の心はくすぐられる。

 取るに足らない、本当に、本当に些細な事なのに……


 海音がいつもよりも楽しそうにしていたのもそうだが、私もいつにも増して楽しい気分だった。何が、とか、どこが、と言う、明確な理由がある訳では無い。

 二人が出している波長が共鳴しあっているとか、たぶんそんな事なのだと思う。

 だから、何を話していても、何も話さずにいても、気分が良い。


 屋我地島を通り抜けた私たちは、国道58号線に合流し、北を目指した。

 途中、国頭漁港にある食堂でランチをしたり、道の駅に寄り道したり、飼育されているヤンバルクイナを見学したり……

 食堂のテラス席で食べたマグロのお刺身はとても美味しかったし、初めて観たヤンバルクイナはとっても可愛らしかった。だけど、海音と一緒だったら、どんなに不味い料理でも、びっくりするほどグロテスクな生き物でも、笑っていられた気がする。


 そんな愉快な雰囲気があったからかもしれないが、私はいつもよりも、海音に甘えた。手を繋いで歩く時も、並んで座る時も、いつもよりもピッタリと身体を寄せて、海音にもたれ掛かるように寄り添った。

 向かい合う時だって、いつもよりも距離が近かったと思う。

 そんな私の気持ちを感じ取ってくれたのか、自然にそう動くように出来ているのか、それは分からないが、海音は背中に手を回してくれたり、そっと抱き寄せてくれたり、私の心の中が、透けているのではないかと思うほど、欲求を満たしてくれる。

 そして私は、そういう雰囲気に酔いしれる……


 あちこちに寄り道したせいで、沖縄本島最北端の地、辺戸岬に着いたのは夕暮れ時に近かった。そのせいか、人の気配は殆どなくて、岬の最先端に立っているのは、私と海音だけだった。

 刻々と変化していく空の色を見つめ、二人きりで暫く佇んでいたら、海音への思いが、急に湧きあがって来た。

 もっと海音を近くで感じたい……

 もっと海音と触れ合いたい……

 そんな感情が溢れ出してきたのだ。


 後ろに立っていた海音に、私はもたれ掛かかった。

 すると、海音はお腹の方へ両腕を回し、後ろから優しく抱きしめてくれた。

 ひんやりとした潮風と、海音の温もりが私の身体を包み込む。

 果てしなく大きな世界に佇む、海音と私。

 彼方に広がる水平線、沈み行く太陽、潮騒のざわめき……


 私は、ゆっくりと振り返りながら、海音の頭に手を伸ばした。

 すると海音は、私の頬に手を当ててそっと引き寄せる……

 ゆっくりと重なる唇と唇。

 甘くて、とても情熱的なキスだった。

 うっとりした私は目を閉じたまま、しばらく身を委ねた。

 二人で作り出した至福のひとときを、少しでも長く味わっていたかったのだと思う。


 ひとつになっていたシルエットがふたつに分かれて、お互い見つめ合っていたら、何だか照れ臭くなってきて、海音を真正面から見つめ続ける事が出来なくなった。

 私は海音の腕にすがる様にして、水平線に目を向ける。

 本当は、もっと見つめ合っていたかったのだけれど……


 隣で、海音が深呼吸をした。

 私も真似をして、大きく息を吸い込む。

 空も海も、時間の経過と共に色彩を失っていく。

 私と海音は、何も言わずに見つめた。 

 

 昔、テレビで恋愛カウンセラーと名乗る人が言っていた。

 恋は向き合ってするもので、愛は同じ方向を見つめるものだと。

 もしもそれが正しいのだとしたら、私と海音の関係は、恋ではなく、愛になっていると言う事なのだと思う。


 「どうする? どこか、宿を探そうか……」

 車に戻ると、海音が言った。

 「今日は、このまま帰ろう……」

 微笑みながら、私は小さな声で囁く。

 海音は少し予想外だったようで、軽く首を傾げた。

 私は海音の瞳を見つめて、小さく頷く。


 海音と過ごした甘いひとときに、続きはいらない。

 この余韻に、もうしばらく浸っていたかった。

 それに、海音と過ごしたこの時間を、新しい出来事と一緒にしたくはない。

 今日と言う日は、どんな記念日よりも素敵な一日だった。だからこれで完結させて、このまま思い出の宝箱に仕舞っておきたい。そう思ったのだ。

 

 ハンドルに手を掛けた海音は、備瀬へ向かって車を走らせた。

 周りはすっかり暗くなっている。

 カーオディオから、甘くて、切ないメロディーが響き始める。

 私は窓の外の暗闇をぼんやりと見つめながら、今日の思い出を振り返った。

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