皺くちゃの笑顔
冬のある日、酔いつぶれた海音が路上で目を覚ますと、傍にいたホームレスの老人が毛布を掛けてくれた。
寒さに震えながら夜を越え、ようやく朝を迎えると、老人は炊き出しで貰ったという味噌汁とオニギリを食べさせてくれた。
一人分しかないのに、二つに分けてくれたそうだ。
粗末な食事だった。食欲も無かったし、とても美味しそうには見えなかった。
だけど、その老人の満足そうな笑顔を見ていたら、とても断れなかった。
海音が食べる姿を、老人はうんうんと頷きながらにこやかに見守っていたそうだ。
朝飯を食べ終えると、その老人は川崎競輪場へ海音を連れて行った。
なけなしの金を叩いて買った車券が的中すると、その払戻金を握りしめ、海音にモツの煮込みを御馳走した。
前歯がなく皺だらけの顔をした老人は、海音がモツの煮込みを食べているのを見ると、皺だらけの顔を余計にクシャクシャにして笑ったそうだ。
汚い身なりで、身体中垢だらけで、饐えた臭いのする老人だったが、その笑顔はとても眩しくて、海音の心には温かい記憶として刻み込まれた。
海音はホームレスの老人と三日間寝食を共にして、最低だと思っていたホームレスの生活が、そうではない事に気付いた。
夢のある生活だけが幸せな人生では無い、その日暮らしの生活にだって、幸せはある、そんな事に気付かされたそうだ。
後日、海音はお礼だと言って、その老人にピン札で十万円を手渡した。
しかし、その老人は受け取らなかった。
こんな大金を手にしたら今の生活が壊れてしまう、と言ったそうだ。
老人に、こんなお金はいらないからラーメンを食わせてくれ、と言われた海音は、町の中華料理屋でラーメンと餃子をご馳走した。
「好きな物を何でも頼んでくれ、って言ったのに、一番安いラーメンを頼んでね、他にも何か食べたら、って言ったんだけど、これで充分だ、って。だから無理やり餃子も頼んでやったんだ」
海音は思い出を振り返りながら、楽しそうに話した。
「前歯の無い口でズルズルとラーメンを啜る姿が嬉しそうでね、スープまで綺麗に飲み干していた。それで餃子を一個食べたら、もうお腹が一杯だって言うんだ。もっと食べてくれよ、って言ったんだけど、勘弁してくれ、って顔をクシャクシャにして…… そんな姿を見つめていたら、泣けてきちゃって……」
別れ際、老人は微笑みながら手を合わせ、何度も何度も頭を下げたそうだ。
明日を迎えられるかさえ分からない、その日暮らしの老人が魅せてくれた幸せ一杯の笑顔、その笑顔に接し、海音の生き方は変わった。
自分に将来が無いのならば、出会った人達の心に笑顔を刻んでいこうと。
落ちぶれた生活から抜け出すのは難しいと思っていたが、生き方を変えるのは、そんなに難しい事ではなかったそうだ。
「物事が変わるのは一瞬だ!」
それが口癖の格闘家がいるらしい。実際にその通りだった、と海音は言う。
周りを変えるのは簡単じゃないけど、自分の意識は変えられる。意識が変われば行動が変わり、行動が変われば景色が違って見え、周りの見る目も変わってくる。
壊れてしまった身体を取り戻す事は出来なかったが、人間らしい生き方を取り戻す事が出来た。
海音の生き方はサラリーマン時代と全く逆の方向へ動き出したのだ。
それからは、最低限必要な金だけを稼ぎ、死ぬまでにやってみたい事を貪欲に追い求めた。
出来るだけ金を掛けずに、幸せを感じられる事を探し、幸せな生き様を出会った人の心に刻み続けていく。そんな生活を続けていたら、どこへ行っても笑顔で迎えられるようになり、心が豊かになった。
海音の笑顔が周りの人を幸せな気分にさせ、周りの人の笑顔が海音の心を満たしていき、ようやく生きていて良かった、と思えるようになった。
汐留で助けてくれた人を、命の恩人だ、と思えるようになったのは、この頃だそうだ。
そしてあの日、海音は私に出会った。
私の顔を見た瞬間、何か運命めいたものを感じたそうだ。
「この人、どこかで会った事があるな、この人は僕にとって大切な人だなって直感したんだ」
そんな私がつまらなそうな顔をして、やさぐれていたから、その姿が、熱血サラリーマンをしていた頃の自分と重なり、放っては置けなかったのだそうだ。
「汐里の話を聞いて居たら、昔の自分を思い出しちゃってさ、仕事に生きるのは悪い事じゃないけど、それだけって言うのはね。仕事って辞めてしまうと、自分が存在した証が残らないんだよね。僕ね、昔勤めていた会社の人と、会った事も話した事もないんだ、会社を辞めてからね。きっと会社で接してきた人の心の中に、僕は居ないんだろうね」
海音は苦笑いを浮かべて語った。
それから、海音は私に色んな経験をさせてくれた。
心臓への負担を考えたら、やらない方がいい事だって沢山あったと思う。
でも、海音は自分が楽しいと思った事を、私に教えたかったんだ、世の中にはこんなに楽しい事が沢山あるんだよ、と。
命の恩人が私なのではないか、と思ったのは、同居していた部屋に飾られていた小さなシーサーを目にした時だそうだ。
意識を失う寸前に海音が見たと言う赤いシーサーは、私のスマートフォンのストラップについていたシーサーだったのだ。
私が救急車を呼んでいる時、海音は私の腕の中で、そのシーサーをぼんやり見つめていた、そう言う事になる。
そしてその思いは、病院で車椅子を押していた私の声が、背後から聞えた時、確信に変わったのだそうだ。
「頭の後ろから話しかけてきた汐里の声を聞いた時に、間違いない、と思ったんだ。だけど、あの時は言い出せなかった。もう会う事は無い、と決めていたからね。胸にしまったまま消えるべきだなって、そう思ったんだ」
潮風が海音の前髪を揺らした。
海音の視線は水平線のずっと向うを漂ったままだ。
モーターボートに引かれたパラセールが空中に浮かび上がったが、海音の視界に入っているのかどうかは分からない。
「五年も前に、出会っていたんだね。やっぱり私達には、何かがあるんだね」
私は海音の注意を引こうとして、肩にもたれ掛かった。
遠くを見つめていた海音の視線が、私のところへ戻ってくる。
薄っすらと浮かんだ笑みが、私の胸をときめかせた。
今の私と海音には、出会った頃のような、キラキラと輝くような幸せは無い。
ふわふわと宙を舞い、強く触れると壊れてしまいそうな、繊細な幸せを育んでいる。そんなシャボン玉のような幸せを包み込むように、私は生きていくのだ。
彼方の未来は見えないが、目の前の幸せを見つめていれば、明日は必ずやって来る。そして、その繰り返しがいつまでも続いていく事を願うのだ。
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