BEGINの唄に誘われて
「お先に失礼します」
後輩の理恵が、極上の笑みを浮かべて、小走りで去っていく。
線路沿いに立つ高層ビルは、夏の太陽を受けて暑苦しい程に輝いていた。
最寄りの川崎駅までは歩いて五分ほど、通り道は一本しかないので、せめて駅まで一緒に帰っても、と思うのだが、彼女はビルを出た途端に走り出した。
一年がかりで作り上げたシステムを客先へ納め、その稼動に一週間立会う、そんな緊張した時間を過ごし、たった今ようやく解放された。
解き放たれた思いを共有したくて、理恵を食事に誘ってみた。しかし、彼との待ち合わせがあるから、と言う理由であっさりと断られてしまう。
後輩から慕われていない、と言う事が、最近少し分かってきた気がする。
五年前に三十歳を越えて、職場の女性で結婚していないのは数えるほどになった。
子供の頃から負けず嫌いだった私は、同期入社したシステムエンジニアの中で常にトップ争いをしてきた。
でもいつしか競う相手が減り、今となっては私の近くを走っている者など誰も居ない。
ライバルだった同僚は寿退職したり、転職したり、社内で職種を鞍替えしていたり、この歳でエンジニアとして突っ張っているのはどうやら稀な存在らしい。
幼い頃かくれんぼをしていて、絶対に見つからない場所に隠れていたら、友達がみんな家に帰っていた事がある。
今の私はきっとそういう状態なのだ。
私だって仕事人間になろうと言う信念を持って仕事をしてきた訳ではない。
でも正直で、負けず嫌いで、完璧主義な性格が災いして、結局そう言うポジションに落ち着いてしまった。
沢村汐里、という名前の前に、主任、という肩書きのついた名刺を見る度にゾッとする。
主任…… 何とも耳障りな響きだ。
先輩の誘いを簡単に断れる、理恵のような存在が羨ましいと思うこともある。
出来る事なら私だって、嫌な飲み会には行きたくなかったが、断る理由が無かったから誘われれば、仕方なく付いて行った。
適当な嘘をついて誤魔化せば良かったのだが、どうしてもそれが出来ない性分だからタチが悪い。
お陰で上司の受けはすこぶる良い、でも同僚や後輩には、そんな姿が媚を売っているように見えるらしく、煙たがられてしまう。
オフィスにいると幻聴が聞えてくる、沢村さんは出世が命だから……
笑っている後輩と目が合うと、口がそう動いているような気がするのだ。
高層ビルを出て、少し歩いただけで目眩がしそうになった。
太陽は傾き始めていたが、依然として強く照りつけ、灼熱のアスファルトからは熱気が立ち昇る、身体全体に纏わり衝く湿気は容赦ない。
本当ならシステムの引渡しが完了して、パーっと飲みに行きたいところだが、悲しい事に飲みに行く相手が居ない。
若い頃は良かった。こんな時は先輩が、打ち上げだ! と言ってメンバーを引き連れ、終電が無くなるまで飲み歩いたものだ。
でも上に立つようになった今、指を高々と掲げたところで止まってくれる者など誰も居ない。
川崎駅まで辿り着き、大人しく改札口に入ろうと思ったが、一瞬、躊躇った。
何となくこのまま家に帰りたくなかったのだ。
住んでいる武蔵小杉までは南武線で十分あまり、この悶々とした状態で、夕日が差し込む家に帰るのは気が引ける。
一度改札口に向かいかけた足を、東口の方へ向けて歩き始めた。
終業時間より少し早い事もあって、人の波はさほど多くは無い。すれ違う人とぶつかる心配がないせいか、自然に足取りが早くなる。これと言って行くあてなど無いのに……
駅ビルを抜けて、雑多なビルが立ち並ぶ繁華街を歩いていると、どこからともなく心地よい歌声が聴こえて来た。
聞き覚えのある歌声、心に沁みるような切ないメロディー、数秒間、耳を澄まして、ようやくタイトルに辿り着く。『三線の歌』、ビギンの名曲だった。
訳も無く目に涙が浮かび、気が付けばその音楽を流している店の前に立っていた。
ずらりとぶら下がるオリオンビールの提灯、色褪せた琉球瓦の庇の上に鎮座するシーサー、何の躊躇いもなく、私は足を踏み入れた。
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