始まりはオリオンビール

 お店の中は時間が早かったせいか、客は疎らで閑散としていた。


 「いらっしゃい」

 暖簾をくぐると、とても威勢が良いとは言えない、甘ったるい声を掛けられる。

 声の主が着ている、ふくぎ、という店の名前が入った黒いTシャツは、お世辞にもお洒落とは言い難いが、背が高く、笑顔の爽やかな男が着ると、そんなデザインでも様になるから不思議だ。


 カウンター席に近い四人掛けのテーブルに通された。

 笑顔の爽やかな男が、飲み物は何にしましょう、とやたらと人懐こい笑顔を振り撒いてきたので、オリオンビールの生を、と苦笑いを浮かべて言った。


 「海音あまねくん、まかない食べちゃって」

 カウンターの奥から女性の声が聞えた。

 厨房をチラッと覗き込むと、ふくよかな女性が鉄鍋を振っている。

 「了解です」

 男は歯切れの良い口調でそう言うと、私のところへ生ビールを運んで来た。

 相変わらず笑顔だ。

 何がそんなに嬉しいのだろうか、と思いたくなるくらい笑顔が弾けている。


 男はまかない料理をお盆に乗せて、隣のテーブル席に座った。

 笑顔を浮かべてこちらへ視線を投げかけ、にこりと会釈する。

 他のテーブルは沢山空いているのだから、わざわざ客の隣に座らなくても、と思ったが、ルックスは中の上、いや上の中、見ようによっては上の上、と言っても差し支えないレベルだったので、それほど嫌な気はしない。

 それでもやっぱり人懐こい笑顔が少し鼻につく。


 「オーダー取りますので、遠慮なく言ってくださいね、あっ、それからこれ、良かったら……」

 男はお盆に乗っていた小鉢をこちらに寄越した。

 「僕、酸っぱいの苦手なんで…… それ、もずく酢です」

 酸っぱさを表現するように顔をしかめ、こちらを見つめる。

 釣られて私の顔も歪んだ。


 「僕、福本海音と言います。ここで週に三回バイトしています。どうぞご贔屓に」

 彼は聞いてもいないのに、勝手に自己紹介を始め、ペラペラと自分の事を語り出し、気がつけば、いつの間にか私に対する尋問が始まっていた。

 ビールで暑気払いをして、軽く料理をつまんで、サクッと帰るつもりだったのに、彼の軽妙なトークに引き込まれて、無抵抗に自分の事を語ってしまう。


 彼は私に少しづつ近づき、綺麗な爪をしている、とか、瞳の色が素敵だ、とか、髪型がとても似合っている、などと、これまでの人生で誰も褒めてくれなかった事を軽々しく口にし、その都度、私は苦笑いを浮かべ嫌悪感を漂わせたつもりだったのに、いつの間にか主導権を握られていて、ムズムズと気持ちが悪いような、それでいて心地良いような、不思議な感覚に包みこまれ、ついついその気になってしまう。

 話をしているうちに、ビールのジョッキが良いペースで空いていき、気分の上昇と共に心の箍が外れた。


 まかない料理を食べ終えた彼は仕事に戻ったのだが、暇になると私の向かい席に座って話の続きを再開し、用事が出来るとまた席を離れていく。

 最初は席に着かれる事が煩わしい、と思っていたのだが、次第に彼がテーブルを離れ、話しが中断してしまう事が煩わしくなってきた。


 どうやら私は、相当色んな事を話したらしい。

 彼がバイトのシフトを終え、店員から客になったところまでは覚えているが、彼の事を、あまね、と呼び捨てにし始めたあたりから、記憶が怪しい。いや、あまね、と呼び捨てにしたのかどうか、それは定かでは無い。


 翌朝、私は、狭くて、かび臭く、あり得ないほど何もない部屋で目を醒ました。

 カーテンの掛かっていない窓から差し込んでくる朝日と、電線にびっしりと並ぶスズメの鳴き声が、私に不機嫌な目覚めをもたらす。

 四畳半一間、トイレも、キッチンも、もちろん浴室も無い殺風景な部屋を見渡すのに、時間は必要としなかった。


 部屋に居たのは私だけで、何があったのかを必死に思い出そうとしたが、何も思い出せず、何かの事件に巻き込まれたのでは、と良からぬ事も考えたが、着衣の乱れはなく、奪われた物も何もない。身体には大きなバスタオルが一枚だけ掛けられていた。


 途方に暮れた。これは、きっと夢だ、そう思った私は一度目を閉じた。次に目が覚めたら、きっと自分の部屋のベッドに居る筈だと。

 しかし次の瞬間、ガシャ、と言うドアノブを回す音が聞え、ハッとする。


 「おはよう!」

 やたらと爽やかな笑顔を振り撒いて部屋に上がって来たのは、フランスパンを小脇に抱えた海音だった。

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