多摩川の土手の上から

 多摩川の土手を、汗まみれになったランナーが行き交う。

 河川敷のグランドでは、少年たちが白球を追う。

 犬の散歩をする人、軽快に走り抜けて行く自転車、川面に糸を垂れる釣り人、忙しなく動き回るゴルファー…… 

 真夏の午前、そこは健康な人の、健康な人による、健康な人の為の場所だった。


 そんな場所を歩いている私は、恐らくその瞬間そこに最も相応しくない人間だった気がする。

 二日酔いによる頭痛と、吐き気と、喉の渇き、ここへ来た事を後悔し、昨夜から今朝方までの自分の行動を反省した。


 どうやら私は沖縄居酒屋で出会った店員、福本海音と意気投合し、散々飲んで、喋って、記憶を無くすほど泥酔したらしい。

 詳しい経緯は分からないが、オンボロアパートの四畳半一間で目を醒まし、近所のパン屋から帰って来た海音と数時間ぶりに再会した。


 前の日が金曜日だった事がせめてもの救いだった。

 この状況で出社など出来る筈が無い。


 海音は玉ねぎとキャベツとニンジンが入った野菜スープを共同キッチンで作り、買って来たフランスパンと一緒に折り畳みの小さなテーブルの上に並べた。

 笑顔の印象しかない海音は、やはり朝から笑顔だった。


 酷い自己嫌悪に陥り気分が沈みこんでいた私は、恥ずかしさを前面に押し出してスープを頂いた。

 それは、とても優しい味だった。

 野菜の出汁と塩こしょうの利いた味付けが絶妙で、二日酔いの身体に沁みていくのが感じられた。


 私の心は少しだけ解されたが、狭くて何も無い部屋に、海音と二人きりで居るのは、どうにも落ち着かない。

 私がさらけ出した醜態、そして今、目の前の海音に晒している化粧の落ちた顔を想像すると、一刻も早くこの部屋を抜け出すべきだと思い、そのタイミングを見計らった。


 食事を終えた海音が散歩に行くと言い出したとき、絶好のタイミングが訪れたと思った。

 晒してしまった汚点は海音の心の中だけに留めて貰い、もう二度と会わず、海音の事を忘れてしまえばそれで全てが終わる、そんな風に思うしか無かった。


 それなのに、「汐里も、一緒に行かない」、と言われ、ノコノコと炎天下の多摩川に着いて来てしまった。

 何故、私は帰らなかったのだろうか……


 もしかして、私の心の深層には、別れ難い、と言う感情が潜んでいるのだろうか、海音を前にして、どうにもこうにも落ち着かない私がここにいる。


 「やっぱり、どこかで会った事があるよね?」

 昨晩の沖縄居酒屋で、まだ記憶が確かな頃に言われた言葉を、海音は持ち出してきた。


 私は鏡に写った自分の顔を見て思うことがある。悪くはないが特別に美人と言い切れるほどでもない。おまけに笑顔を作るのが苦手だから、どちらかと言えば暗く見える。それなのに一人でお酒を飲んでいると、かなりの確率で男に声を掛けられる。

 そんな時に掛けられる言葉は大抵このひと言だった。

 きっと、この程度の女なら何とかなる、そう思われているのだろう。


 海音も、どうせその類の男だろう、と思ったから、最初は軽くあしらっていた。

 それなのに、いつの間にか心の中に踏み込まれていた。いや、踏み込まれた、なんて乱暴な言い方より、寄り添われていた、と言った方が的確かもしれない。


 気付いたら、私は笑っていた。

 それは作り笑いなんかではなく、自然に溢れ出た笑いだった。

 海音は、私の笑顔を褒めた。

 可愛い、美しい、その笑顔を見ていると幸せな気分になれる、汐里の笑顔は世界一だ…… 良くもこんなに褒め言葉を並べられるものだと感心するほど、私を褒めた。

 会社でも、私生活でも、心から笑うなんて事が殆どなかった私が、笑っている自分に気付いた。

 こんな私が笑っている、そう思った頃からやたら気分が良くなって、沼にハマって行ったのだ。


 「いや、何度も言っていますけど、会った事なんてないですよ」

 「おかしいなぁ、僕、出会った人の顔は、絶対に忘れないんだけどなぁ」

 海音は土手に腰を下ろして首を傾げる。

 なんとなく私も隣に座った。

 男の人と二人きりで、こんな風に接するのは果たしていつ以来だろう。


 新入社員の時、同期の男に交際を迫られて、男と女の関係になった事がある。

 相手は自信家で、見た目も格好も派手で、顔つきも、体つきも、イケている男だった。

 自分に自信を持っている男だったから、全てにおいて堂々としていて、付き合っていて心強かったし、居心地の良さも感じていた。

 このまま順調にキャリアを積んでいけば、いずれ会社を背負うような立場になるんだろうな、そうしたらこの男に付いていく人生も悪くないな、そんな風に思った矢先、彼のメッキが剥げた。


 ちょっとしたミス、些細な躓きが、彼の歯車を狂わせる。

 自信家の彼はミスを受け入れる事が出来ず、ミスを正当化しようと奔走し、アリ地獄に落ちていった。負けず嫌いで完璧主義なところは、私と彼の共通点だったが、彼には正直さが欠けていた。


 私はそれを指摘した。

 「大したミスじゃないんだから、認めちゃいなよ」

 この時、彼から返ってきた言葉を私は生涯忘れないだろう

 

 「汐里は、正しすぎて、可愛げがないんだよ……」

 彼と過ごした二年間がひどく虚しく感じた瞬間だった。

 それ以来、男は居ない。

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