彼の匂いは柑橘系

 「ずっと気になっていたんだけど、あなた、歳はいくつ?」

 海音は私の事を、汐里、と呼び捨てにする。その呼び方に違和感を持っていた。


 見た目は若い、いやチャラいとでも言うべきか。

 ルックスは良いし、笑顔も素敵だが、いかにも存在が軽いのだ。

 軽い男に呼び捨てにされるのが癇に障った。


 「タメだよ、タメ、昨日言ったじゃん。それにさぁ、あなた、って他人行儀な言い方は止めようよ、海音、って呼んでくれていたんだからさ」

 私は顔をしかめた。

 言い返す言葉が見当たらなかった、何しろ昨晩の記憶が殆どないのだから。

 恥ずかしくて口を噤んでいると、海音は私の顔を覗きこむように見て、ニヤニヤと笑う。


 一度視線が合い、見つめ返せず、私が視線を逸らすと、海音は昨晩の事を語り始めた。

 「僕と汐里が同い年だって分かったらさ、『仕事は何をしているの』、って聞いてくるから、フリーターだ、って言ったんだ。そうしたら、『いい年なんだから、真面目に働きなさいよ』、ってお説教が始まっちゃって…… 散々駄目出しされた挙句、汐里の仕事が話題になったと思ったら、今度は愚痴ばっかりになっちゃって……」


 もしもこれが真実ならば、海音にとっては災難だった、としか言い様が無い。

 完全に貰い事故みたいなものだ。

 店を訪れた一人飲みする寂しい女に優しく接した為に、絡まれて、延々と愚痴を聞かされる。付き合わされた海音にとっては最悪だった事だろう。

 それなのに何故か海音は、笑いながら、嬉しそうに話す。


 「ごめん…… 恥ずかしくて、もう聞きたくないけど、その後は……」

 私はパンドラの箱を開けようとしている、物事を有耶無耶に出来ない悪い癖だ。


 「ずっと話しを聞かせて貰ったよ。殆ど同じ話の繰り返しだったけどね。それで、終電が無くなる時間になっちゃって、家まで送っていく、と言ったんだけど、『まだ、帰りたくない』、って言い張って、僕がトイレに行っている間に眠っちゃって、全然起きないからさ、結局、背負って僕の部屋まで歩いて帰ったんだぜ。お店から1キロ、長かったなぁ…… でも…… スヤスヤ眠る汐里の寝顔は可愛かったよ」


 微笑みかける海音の前で、顔が赤く染まっていく。

 それは鏡を見なくても分かった。


 他人に弱いところを見られるのが嫌だった筈なのに、初めて会った男に、ブレた姿を見られてしまった。

 本当なら一刻も早くこの場から消えたいのに、何故だか海音と離れるのを拒む、もう一人の自分がいる。

 心の中を暖かい南風と、猛烈に冷たい北風が同時に吹き荒れた。

 もしも時間を遡れるのなら、沖縄居酒屋に入ったところからやり直したい、そんな叶わぬ思いが湧いてくる。


 「それで、終わり?」

 「終わりだよ」

 「あとは何も無かった?」

 「何もないよ」

 「本当?」


 私は海音に何を言わせようとしているのだろう、ひょっとして何かを期待しているのだろうか。いや違う、もっと恐ろしい何かが出てくる事を恐れ、恐れるがあまり、指の隙間から覗き見しようとしているのだ。


 「あぁ、そう言えば、汐里が眠っている間にキスをした」

 心臓が早鐘を打った。

 やっぱり……


 圧倒的に恥ずかしい気持ちと、少しの海音に対する怒り、ひょっとしたら僅かな喜びも含まれていたかもしれない、色んな感情が入り混じって、心の中に渦が巻き始めた。


 「えっ、本当?」

 それまでよりも、声が1オクターブ高くなったのを自覚した。


 「…… ウソだよ、ウソ、何もしてないよ」

 「本当に、ウソ?」

 「本当に、ウソ、キスしようとしたんだけど、汐里があまりにも無防備だったからさ、やめたんだ」


 海音は満面の笑みを浮かべて、からかうような言い方をした。

 私は落ち込んだ。なんで落ち込んでいるのかは分からない。

 キスをした、と言われ、恥ずかしいながらも喜び、実はしていなかった、と言われてガッカリしたのだろうか……

 いや、そんな筈はない。私はそんな女じゃ…… ない筈。


 海音と言う不思議な雰囲気を持つ男に心をかき乱され、私の頭は混乱している。

 きっと本能と理性が喧嘩をしているのだ。

 こんなの私らしくない、と頭を振った。

 すると、頭の中で音がした。

 それは、これまでに築き上げてきた物が、崩れ落ちる音だった。

 きっと私は、口をへの字にして、酷く残念な女の顔をしている、もはや立ち上がる気力さえ失った。


 「キスするときは、ちゃんと見つめ合いからね」

 ウインクをして、海音が言った。

 弄ばれている、そう思った瞬間、何故か怒りにも似た感情が湧きあがって来た。

 その感情が私の右手を動かし、海音の頬を目掛けて飛んでいく。


 次の瞬間、手に伝わってきた感触は、頬を叩く痛みではなく、手首をつかまれた拘束感だった。

 海音は、頬を張ろうとした私の手首を掴んだ。

 二人の間を流れる時間が止まり、視線がぶつかりあった。

 私の身体は金縛りにあったかのように、全く動かない。

 

 止まっていた時間が緩やかに動き出すと、私の身体がゆっくりと海音に引き寄せられていく。

 気付いたら、逞しい胸板に顔が押し付けられていた。

 海音の身体から柑橘系の爽やかな香りがした。

 南国を連想させるその香りに包まれ、瞳が潤んでいる事に気付く。


 どこか高いところへ昇っていくような、いや途轍もなく深いところへ落ちていくような、久しく忘れていた不思議な感覚…… 周りの音と景色が消え、全身から力が抜けて、別の世界を彷徨い始める。


 海音の胸の中にどれくらい居たのかは分からない。

 きっと一瞬だったのだろう、でも私には、その時間が永遠のように長く感じられた。


 きっとあの時、海音は私の心に棲みついたのだ。

 空っぽだった心に棲みついた海音の存在は、やがて失う事が出来ないほど大きく育っていく。

 でも、その事に気付くのは、もう少し後の事だった。

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