月明かりが届かなくても
ようやく太陽の温もりを感じられるようになった頃、海音はサーフボードを抱えて海からあがって来た。
朝日を背にして浮かび上がったシルエットが、均整の取れた体つきを物語っている。
流木の上に腰を掛けていた私は、甲斐甲斐しくタオルを渡した。
「ねぇ、汐里はいつになったら、サーフィンするの?」
海音が口を尖らせた。
「見ているだけで充分だよ、毎日、パソコンの画面と向き合っているから、海を眺めているだけで、リフレッシュされるんだ……」
海音は微かに頬を緩め、冷ややかに笑った。
「ねぇ、海音……」
「なに?」
「なんで、私なの?」
私はこれまでに何度かこの問い掛けをしてきた。
「汐里はさぁ、自分の美しさに気付いていないんだよ。僕はね、月明かりが届かない暗闇の中に汐里が居ても、その美しさに気付ける自信があるよ」
こんな歯が浮くような台詞を海音はさらりと口にする。
並みの男からこんな事を言われたら、サブイボが立ちそうなものだが、海音に言われると、顔が火照ってしまうから不思議だ。
そんな気分を味わいたくて、私はこの問い掛けを繰り返すのかもしれない。
海音と出会ってから三ヶ月が過ぎた。
立眩みするような夏は遠くへ過ぎ去り、朝晩は身震いするような寒さが訪れるようになっている。
多摩川の土手で、海音に抱きしめられた後、私は不覚にも涙を零した。
その涙がどこからやって来たのかは分からないが、心のどこかにあるスイッチを、海音が押したのだと思う。
私は紛れも無く恋に落ちた……
くだらない男に騙されてはいけない、と築きあげてきた鉄壁の砦が、海音によっていとも簡単に落とされたのだ。
同い年でありながら、自由気ままに生き、定職に就かずフリーターをしている男など絶対に受け入れてはいけない筈だった。それなのに、海音が作り出すふわりとした雰囲気を跳ね返す事が出来ない自分がいる。
受け入れてはいけない、と言う意識は、求めていた潜在意識の裏返しだったのかもしれない。
あの後、私と海音は多摩川の土手を並んで歩いた。
海音の口数は何となく減り、会話が減った替わりに海音は私の手を握った。大きくて柔らかくて、ところどころにゴツっとした硬さのある手だった。
心臓から音が聞えてしまいそうなほどドキドキしたが、それを悟られないように平静を装って歩いた。私の足はフワフワと宙を浮いているような感じで、常日頃こだわりを持っている、颯爽とした歩き方には程遠かった。
何故だか分からないが、海音を前にすると自分の存在が弱々しく思えて来る。
職場では誰にも負けない、と突っ張っている私が、肩をすぼめ、手を引かれて歩くのだ。
肩に手を回す男がいたら、これまでだったら反射的に身体を遠ざけようとした筈なのに、海音に手を回されると、無意識に身体を寄せてしまう。
私ってこんなにしおらしい女だったっけ?
そんな風に自己分析するのは、いつも海音と別れた後の事で、海音と一緒にいる時の私は、自分で言うのもなんだが、乙女になってしまうのだ。
本位かどうかは置いといて、私と海音の関係は階段を一つ上がった。
「僕は汐里の事、好きだよ」
海音はさらりと言う。
私も海音の事が好き、と言ってみたいのだが、これまで歩んできた私の人生がそれを拒む。
だから感情を表現する言葉は、一方通行のままだ。
僕の事をどう思う、と聞いてくれれば、頷く事くらいは出来そうな気がするのだが。
そんな事を思っていると、何だか胸の奥がこそばゆくなってくる。
女子高生じゃあるまいし、と自分の事を咎めるのだが、そんな時、鏡に移った顔は大抵ニヤけていて、その締まらないニヤけ顔を見てハッとする。
それでも近頃は、それにもだいぶ慣れてきた。
恋をしているから仕方がないのだ、という自らを肯定する考え方が芽生えているのだろう。
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