希望の轍はどこまでも

 沖縄で暮らし始めて三か月が過ぎた。

 

 内地のようにはっきりとした四季が無い南の島は、秋と呼ばれる季節になっても、木々の葉は青々と生い茂っている。

 暑さは随分と和らいできたが、それでも海で泳ごうと思えば、泳げる程の気温にはなる。


 私は沖縄の暮らしにすっかり染まっていた。

 時間に追われる事無く、自然の流れに身を任せて暮らす、そんな生活がとても心地よく、身体の中の淀みが清らかに流れていく気がした。


 私の身体がどんどん元気になって行くのだから、海音の身体も良くなるに違いない、ここでならば、いつまでも健やかに暮らしていけそうな気がする。

 きっと大丈夫、そんな風に言い聞かせて、一日を迎えていくのだ。


 沖縄暮らしを始めるにあたって、いくつかクリアしなければならない課題があった。大きいのは、会社と、マンションと、両親だ。


 会社は、上司に預けていた退職届を、受理してくれるようお願いした。

 しかし、事は簡単に進まない。辞める、辞めるな、これでどうか、それでは無理だ、そんな押し問答を数えきれない程、繰り返した。

 理恵は私に、そんなに頼りにされていないから居なくても大丈夫、と言っていた。

 でも、それなりに頼りにされていたようだ。


 結局仕事は沖縄でする事になった。

 今の世の中、パソコンが一台あれば出社しなくても仕事は出来る。

 私は、後輩の理恵の管理下に組み込まれ、理恵から指示された作業をする、と言う事で落ち着いた。

 理恵から指図される、という事にいくらか抵抗はあったが、今回の一連の切掛けを与えてくれたのは理恵だったから、そこは黙って飲み込む事にした。


 マンションは売却せずに賃貸物件として貸す事にした。その為の手続きで、一週間ほど川崎へ戻り、部屋の整理と不動産契約を済ませてきた。

 借主は割と簡単に決まり、先月から家賃が振り込まれている。

 我ながら、この件に関しては上手くやったと自負している。

 今後の事を考えたら、不労所得、と言うのは有難いものだ。


 一番の懸念は、私の両親をどう説得するか、だった。

 常識を絵に描いたような家族に、いきなり仕事を辞めて沖縄で暮らし始める、しかも一度も紹介した事が無い男性と一緒になる、なんて話をしたら、どんなアレルギー症状が現れるのか……

 そんな事を想像したら、憂鬱で仕方なかった。


 でも、予想に反して両親は寛大だった。

 娘の年齢がそれなりである、と言うのがあるかもしれないし、夫婦でゲストハウスを営む、と言う情報の伝え方が悪い印象を与えなかった、と言うのもあるだろう。

 海音はもうフリーターではない。規模は小さいけれど、宿の経営者、いわば一国一城の主なのだ。

 詰まるところ、理恵が言っていたように、私が思うほど周りはそんなに気に掛けていなかった、と言う事なのかもしれない。


 ちなみに海音が病気を患っている、と言う事は伝えなかった。

 伝えたからって、どうなるものでもないし、余計な心配を掛けたく無かったからだ。


 他にも小さな事はいくつかあったが、手続きが面倒なだけで、さほど障害にはならなかった。


 私と海音は、ゲストハウスとは別棟にある海音が子供の頃に過ごしていた家で、新しい生活を始めた。


 入籍するかどうかに関しては少し揉めた。

 海音は、重い病気を抱えている、という事を気にして、私の事を気遣ってくれたようだが、福本家に嫁入りする事を強く望んだ私を、海音も富江さんも、最後は受け入れてくれる事になった。


 私は海音の未来に絶望した訳ではない。

 希望を持って、幸せな家庭を築いていける、と信じている。

 そう信じる事で、海音が希望を持って生きてくれれば……

 それが私の願いなのだ。


 海音は主にゲストハウスの管理をして、富江さんは畑作業をする。私はシステムエンジニアとしての仕事をオンラインで行い、時間が余れば、海音や富江さんの手伝いをした。


 海音がゲストハウスの管理をするようになってから、若い女性客が増えた気がする。海音のルックス、それに海音が作る朝食が、女性客の心を掴んだのだと思う。

 もっとも、依然の客層がどんなだったかは知らないので、本当のところは良く分からない。でも、海音に好意を抱いている女性客が大勢いるのは間違いないだろう。


 そう言えば、海音はゲストハウスに来る若い女の子に口説かれたりするんだ、と言っていた。

 ちょっと妬けたが、海音ほどの男なら言い寄られても仕方が無い。目を瞑って海音を信頼しようと思う。我慢できなければ、海音の妻であることをさりげなくアピールすれば良いのだ。


 斯くして、私の沖縄生活は軌道に乗った。

 海音と過ごす日常が一日、一日と続いていく事で、私の足跡は繋がって、やがて轍になっていく。どこまでも続く希望の轍を、私は刻み続けていくのだ。


 朝起きて、庭に出て、大きな背伸びをする。

 その瞬間すらも、私は幸せに感じている。

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