きっと…溺れてる

 クリスマスソングが街中に流れ始めた頃、海音はやって来た。

 引越しは簡単に終わった。


 段ボールが一つと大きなスーツケースが一つ、友達から借りた、と言う乗用車の後部座席だけで、全てが収まった。


 あれだけ多趣味なのに海音は自分の道具を持たない。

 ミニマリストという言葉があるが、まさしく海音はそれだった。


 一緒に暮らすようになって、生活は一変した。

 料理が上手な海音は、いつも朝食を作ってくれる。

 玉子料理、サラダ、スープ、パンと言う洋風スタイルの日もあれば、焼き魚、漬物、味噌汁、ご飯という和風スタイルの日もある。

 フルーツどっさりのパンケーキや、手作りジャムを沿えたワッフル、海音の部屋に初めて泊まった日に作ってくれた野菜スープは、私の大好物になった。


 朝の食卓は色とりどりで、向き合って座る海音の笑顔は眩しく、毎朝、夢じゃないか、と思うくらい楽しくて、笑顔で過ごす時間が大幅に増えた。

 

 そして、海音に見送られて出社する。

 通勤時間も、勤務時間も、全ての時間が充実していた。

 どんなに仕事が忙しくても、上司に無茶な指令を出されても、後輩に嫌味を言われたってへっちゃらだった。

 家に帰れば海音が居る。海音が傷ついた私の心を癒してくれる。

 そう思ったら、今の私に乗り越えられない壁なんて無いような気がしてきた。


 週に三回、海音はアルバイトをしていて、その時は私が先に帰宅する。

 でも、それ以外の日は、「いってらっしゃい」、と、「おかえりなさい」、が海音の言葉で、「いってきます」、と、「ただいま」、が私の言葉だった。

 最初は違和感があったけど、やがて慣れ、それすらも私の喜びとなった。


 十二月に入り、人生で初めてクリスマスツリーを買った。

 クリスマスケーキとフライドチキンも予約した。

 一年で一番煩わしいと思っていた一日が、待ち遠しく感じられた。


 コンビニの店員に挨拶をしたり、バスの運転手にお礼を言ったり、私らしくない私の振る舞いに気づき、苦笑いする事もあったが、そう言った事が自然になりつつある。


 そう言えば、二人で暮らすようになったら、水曜深夜のドキドキが無くなった。

 海音から掛かってくる電話を、今か今かと待ちわびる時間、そして電話の呼び出し音が鳴り、スマホの画面に、あまね、と表示されたときの喜び、あの何とも言えない緊張感を味わえなくなってしまったのは残念だ。


 それに待ち合わせ場所に、時間よりも少し早く着き、海音が現れるのを待つひととき、今日はどこへ連れて行ってくれるのだろう、と想像しながら待つ至福の時間も無くなった。


 でも、そう言った微妙な距離感が無くなり、憶測や駆け引きをしなくて良くなった事は、私の心に安定をもたらしてくれた。


 私が仕事をしている間、海音が何をしているのかは分からないが、家に帰れば必ず会える。私が仕事をしている時間と、海音がバイトをしている時間以外は、いつも一緒で、一緒に居ると大きくて、柔らかいものに包まれているような気分を味わえた。


 週末のデートは同棲前と変わらなかった。待合わせじゃなくて、一緒に家から出発する、という事を除けば。

 一緒に居られるだけで満足だったから、出掛けずに家でのんびり過ごすだけでも良かったのだが、週末になると必ずと言っていい程、私をどこかへ連れ出してくれた。


 海音は自分のやりたい事、私に経験させたい事を貪欲に探し出し、私を連れ回す。 

 でも、決して独り善がりにならない所が海音の良さで、いつも私を飽きさせないようなお膳立てをしてくれる。


 どこにいようが、海音が側に居て、笑いあっていられれば、それに勝る幸せなんて無いと思った。

 だから海音がフリーターだ、と言うのは、気にならなくなっていた。

 いや、気にしないようにしていたのかもしれない。


 こんなに満ち足りた時間をもたらしてくれるのだから、仕事なんてどうでもいいじゃないか、と心の奥のほうに居る、もう一人の自分が、私に言い聞かせているのだろう。


 きっと私は、海音に溺れているのだ。

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