やさしいキスは潮の香り

 私が住むマンションは武蔵小杉の駅から歩いて十分ほどのところにある。


 毎月、賃料を支払っていたのでは、いつになっても自分の物にならない、それではお金をどぶに捨てているようなものだ、という思いがあって、就職して間もない頃にマンションを購入した。


 ローンを組むにあたり、父親に一肌脱いでもらったが、返済は滞りなく済ませ、2DKの中古マンションは就職して十数年が過ぎた今、完全に私の財産になった。


 これと言った趣味は無いし、高級な洋服や、バッグを買い揃えるのも馬鹿らしい、生活必需品の購入以外に、給与の使い道が無い私にとって、住宅ローンの返済など何の苦にもならなかった。


 お陰で同世代の女性たちが掴んでいるキラキラした物を、私は何ひとつ掴めていないのかもしれないが……


 私の荷物は海音ほどではないにしても、同世代の女性と比べたら圧倒的に少ない。 

 六畳の部屋がひとつ、ほぼ使っていない状態なので、四畳半一間に住んでいる海音が引っ越してきても、スペース的にはなんら問題はない。


 私の心に棲みついた海音の存在は、日を追う毎に大きくなり、今ではもう手放せない程になっている。


 海音と付き合うようになってから、週末がやってくるのが楽しみで仕方ないし、更に言うなら、水曜日の電話が待ち遠しくて堪らない。


 海音と出会うまでの休日は、部屋に閉じ篭もって、平日に録り溜めたビデオを観ながら、ワインを飲み、寝落ちしているのが常だった。

 だから大抵、ドラマや映画の結末は憶えていないし、ワインの味だって良く分からない。


 なんの成果も上がらない無意味な時間を過ごしていたから、週末が近づいてきても、ちっとも楽しみなんかじゃなかった。

 そのくせ、日曜日の夕方になると憂鬱になると言うのだから、救いようが無い。


 私の人生はこうやって時間を浪費しながら終わっていくのだろうな、と諦めていた。何かを感じる、という事無く、仕事だけを忠実にこなして生きていく。一人で生きていくだけだって、簡単な事ではないのだから、別にそれが悪い事だとは思わない。


 だけど、海音と過ごすようになってからは、見える物、聞える音、漂う香り、同じ物を食べたって全然味わいが違ったし、触れ合う事でこんなに癒されるなんて考えてもみなかった。

 海音と一緒に食事をして微笑みあい、海音に触れられて心をくすぐられる。幸せってこういう事なのかな、と今更ながら思った。


 海音に同居の提案をしたのは、ずっと一緒に居たい、と言う純粋な気持ちが芽生えたからだ。デートが終わったとき、違った方角へ歩き始めるのが、切なくなってきたと言うのもある。

 だけど、その先の将来を考え始めた、と言う打算も、あるにはあった。

 一緒に住んで、お互いの気持ちをさらに確かめ合い、結婚、出産、という女の幸せを考えたって、バチは当らない筈だ。


 結局、海音は引っ越してくる事になった。


 引越しが決まってから、私の心は弾み、普段は近寄らない雑貨屋へ行き、ラグマットや、食器や、タオルなんかを買い揃えた。

 カーテンも新調した。今までは陽射しを遮るという役目を果たしてくれれば、何でも良いと思っていたのに、部屋の雰囲気とか、海音の好きそうな色とか、散々悩んで、海がイメージできるような水色のカーテンを選んだ。

 色んな事を想像しながらのショッピングは楽しかった。

 生活必需品しか買わない日頃の買い物とは大違いだ。


 だけど海音はあまり浮かない様子だった。

 一緒に住もうよ、と最初に言った時も言葉を濁していたし、その後も何となく返事を先へ延ばしているように思えた。


 「海音と離れている時間が、辛くなって来たの」

 ある日、自分の思いをストレートに伝えた。

 少し風が強い夕暮れの材木座海岸だった。


 そんなつもりは無かったのだが、この言葉を伝えた時、私の目から何故だか涙がポロポロと零れ落ちた。

 だから、こんな風に言ったら海音が落ちる、なんてズルい考えではなく、心から溢れ出た言葉だった。


 「汐里がそう言ってくれるのなら、一緒に暮らそう」


 海音は、私をぎゅっと抱きしめてくれた。

 私の身体は、真ん中からぽーっと熱くなり、全身から力が抜け落ちた。

 さっきまでウインドサーフィンをしていた海音の身体が、少しひんやりとしていて心地よかった。


 抱きしめられていた私が、ふと顔を上げると、唇に柔らかいものが触れた。

 材木座海岸の地下道を吹きぬける風が、砂を巻き上げてふくらはぎに当たる。


 海音の唇からほんのりと潮の香りが漂った事を、今でも鮮明に憶えている。

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