いつかなんてやって来ない
そう言えば、朝の三時に起こされて、釣り船に乗せられた事もある。
友達から借りた、と言う車で迎えに来た海音は、酔い止め薬を私に飲ませた。
ドライブに行くもんだ、と思っていた私は、車ぐらいじゃ酔わないから大丈夫だよ、と言ったのだが、念のために飲んでおいて、と言うので、素直に従ったら船に乗せられていた。
競馬の件もあったので、私は怒りを抑えて海音の言う事を素直に聞いた。
ちょっと臭いのするライフジャケットを身につけ、小さな船に乗り、渡された竿を握って、人生初の釣りを体験した。
ムカデみたいなエサを見た時は卒倒しそうになったが、準備は全て海音がやってくれて、私はただ竿を握って、糸を垂らすだけで良かった。
静かな海の上で、昇っていく太陽を眺めながら、キラキラと輝く海面を見つめる。
悪い気分ではなかった。
海音の言いなりになって、竿先を見ていたら、ピクピクっと竿がしなり、リールと言うものを巻き上げたら、黄金色に輝く細長い魚が、三本ある釣針の一番下についていた。
キスという魚だ、と海音が教えてくれた。
それから数時間、私は夢中になって釣りを楽しんだ。
竿を伝って手に届く感触がたまらなく心地よかった。
エサをつけるのも、釣れた魚を外すのも、海音がやってくれて、竿を上げるタイミングや、リールの巻き方も言われた通りにするだけだったけど、釣りの楽しさを存分に味わうことが出来た。
海音は私に付きっ切りで、自分の竿は使わず、暇になると船頭さんや、常連らしきお客さんと談笑していた。船頭さんが、海音、と呼び捨てにしていたから、海音も常連なのだろう。
海音が準備していた小さなクーラーボックスは、キスや名前の覚えられない色んな魚で一杯になった。
釣った魚は陸に上がった後、天ぷらにして食べさせてもらった。たぶん生まれてから今まで食べた中で、一番美味しい天ぷらだったと思う。
何も聞かされずにパラグライダーをした事もあった。
こんもりした山の頂上から、海音とひとつになって空を舞う。
出会う事がなければこんな経験は一生しなかっただろう。
この時も嫌がる私を巧みな言葉で操り、気がついたら山の斜面を駆け下りる羽目になっていた。
私の心の九割は恐怖と不安だったが、残りの一割は、海音と一緒に危険な事へ挑戦するんだ、と言う期待感のようなものがあったように思う。
恐怖や緊張からくるドキドキ感は恋愛感情に通じる、という学説をどこかで聞いた事があるが、この時の気持ちは、きっとそれなのだと思う。
海音と一緒だったら、死んでもいいわ……
そんな思いが心の片隅にあったのかもしれない。
色んな装具を身につけて、順番を待っている時は、変な汗が出てきた。
そして斜面を駆け下り、フワッと宙に浮いた瞬間、私は後悔した。
やっぱり、やめておくべきだったと……
でもそれはほんの一瞬の事で、もうどうにでもなれ、と開き直って、恐る恐る目を開けてみたら、眼下には美しい景色が広がっていて、耳元で囁く海音の声はいつもよりも甘く聞え、いつの間にか空を漂う感覚に酔いしれていた。
数分間の異世界を経験し、着地した時はほっとしたような、ちょっぴり残念なような…… もう一度やろう、と言われたら、即答は避けると思うけど、きっと海音の言葉に翻弄され、結局は飛んでしまうと思う、そんな素敵な体験だった。
帰りに寄ったお店で食べた金目鯛の煮付けは絶品だった。
それに海に沈んでいく夕日を眺めながらのドライブは最高にロマンチックだった。
どんなに道が混雑していても、海音と一緒に居られたら、それはどんなに高級なホテルのスイートルームよりも、居心地の良い空間に思えてくる。
映画を観たり、スポーツを観たり、食事をしたりと言った普通のカップルがしているようなデートもしたけれど、行く先々には海音の事を知っている人が居たから、いつも特別なゲストとして迎えられているような、そんな優越感に浸る事が出来た。
そう言えば、ボクシングの試合を観にいったとき、選手の控え室へ連れて行かれた事があった。どこで知り合ったのかは知らないが、その日のメインイベントに出場する選手だった。
その選手がノックアウトで試合に勝って、チャンピオンベルトを掲げている姿を見たとき、海音はこの人とも友達なんだな、と思ったら、それが途轍もなく凄い事のような気がしてきた。
海音はデートの時、お店の人や、タクシーのドライバー、駅員さんなどに親しく接する。ありがとう、とか、お疲れ様、とか、今日は寒いですね、などと気さくに声を掛けて、ひと言ふた事の会話を交わし、笑顔を残していくのだ。
独りきりで自撮りしている人を見ればシャッターを切ってあげたり、駅のホームへ上がる階段の下で、重たそうな荷物を持ち上げている人がいたら、その人の荷物を持ってあげる。
そんな優しい海音と一緒に居ると、誇らしい気分になり、そういう事をスマートに出来ない私は、海音のそんな姿に感心してしまう。
どこへ行っても、誰と会っても、いつも明るくて、温かい雰囲気が海音の周りにはあった。
僅か数ヶ月なのに、楽しい思い出を数え出したらキリが無い。
どうやってこんな遊びを覚えたのか、と思うくらい、海音は色んな遊びを知っていた。
大した仕事をせずに生きていると、こんなに楽しい事を習得できるのか、と思えば、時間を無駄にしてきた訳ではないのだな、と納得するが、それで果たして良かったのか、と言うと決して良い筈が無い、と私は思う。
笑顔だけでは乗り越えられない現実だってあるのだ、と思うからだ。
その事を海音に、事あるごとに言ってきたのだが、「汐里は、僕と一緒にいるとき、いつも楽しそうにしているでしょ。それで充分じゃない」、などと掴みどころの無い言葉を返してくる。
もう少しまともな回答をしてくれれば言い返す事が出来るのだが、これでは議論にすらならない。
結局そう言われた私は、心の奥をくすぐられたような気分になって、せいぜい頬を膨らませるくらいしか出来ないのだ。
海音は他人を楽しませる事に関しては天才だ。
それは、どこへ行っても海音の顔を見ると嬉しそうに集まって来る人達がいる、という事実が証明している。
「見ているだけじゃつまらないよ、サーフィンなんて誰だって出来るんだから、やってみなよ」
海音がタオルで頭を拭きなが言う、いつもの事だ。
「いつかはね……」
「いつかなんて、やって来ないよ。今、動き出さないと……」
海音は時々、ドキッとするような事を口にする。
陽気で能天気な海音が発する刹那的な響きを持つ言葉、そんな言葉を浴びせられるとチクっと胸の奥に痛みが走る。
いつかなんてやって来ない、それは、いつまでもなんてあり得ない、とも聞こえるのだ。
「寒いのが苦手だからさ、暖かくなったら挑戦してみるよ……」
苦笑いしながら言う私を、海音は鼻で笑った。
顔は笑っているが、瞳の奥には悲しげな光が灯っているように思える。
それが何となく気になったが、気のせいだ、と思う事にして、無理やり話題を替えた。
「それは良いとして、この間、話した事、考えてくれた?」
「あぁ、一緒に暮らそう、って話しだろ。でも、僕の部屋、相当狭いぜ」
海音は馬鹿にしたような顔で笑う。
「海音の部屋じゃないって、私の部屋に海音が引越して来るんだよ。私の部屋、持ち家だから一緒に住めば、海音の部屋代が浮くでしょ」
「そうだな……」
海音の表情が翳る。
気のせいかもしれないが私が将来の事を話し始めると、海音は浮かない顔をする。
今を生きる、というのがポリシーなのは分かるが、私だって一応年頃の女だ、将来の事をないがしろに出来ない事情だってある。
「ちょっとは真剣に考えてよ…… 私、海音のこと……」
「大丈夫だよ、ちゃんと考えているから」
そう言うと、海音は背中のファスナーを降ろして裸になった。
「いきなり脱がないでってば……」
私は海音に背を向けて、波打ち際へと歩き始めた。
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