ニライカナイへの旅立ち

 「僕の意識が失われて目覚める可能性がなくなったら、命の期限を延ばす為だけの延命措置は取らないで欲しいんだ」


 海音はいつもと変わらないトーンで、あっさりと言った。

 だから私は、言葉の重みを感じるまでに少し時間が掛かった。


 「もしも、そう言う事になったら…… の話だけどね……」


 海音が伝えたい事…… それは分からないでもない。もしも自分の立場に置き換えたなら、私だって同じような事を考えるかもしれない。

 でも、その事を今、目の前にいる海音の口から告げられた、と言う事が重く心に圧し掛かってきた。

 そんな事を口にしなければならない程、海音の終わりは近づいているのだろうか…… そして、私もそういう心の準備をして置くべきなのだろうか?

 そんな事を考え始めたら、目の前の景色が色を失っていくように感じられた。


 私は、もしもの時、海音の意志を尊重する事が出来るのだろうか……

 真剣に考えれば考えるほど、不安な事が増えていって、息が苦しくなってくる。

 胸の奥にずしりと重たい大きな塊を無理やり押し込められたような、そんな沈んだ気分になって、その後、どんな風に家まで帰ったのか思い出せない。


 「そう…… 海音がそんな事を言ったのね」

 その晩、私は富江さんに海音に言われた事をそのまま伝えた。

 どうしても、自分の胸だけに留めておく事が出来なかったからだ。


 「あの人と一緒ね…… きっとあの子、聞いていたのね」 

 縁側に置かれていた琉球グラスの中の氷が泡盛に溶けて、カランと音を立てた。

 富江さんはグラスを手に取って一口含み、ゴクリと喉を鳴らした。


 「私の夫もね、倒れたとき同じような事を言っていたわ。もしも意識が戻らなくなったら、無駄に命を延ばすような事はせずに、ニライカナイへ行かせてくれって。どこまで本気だったのか、良く分からないけど……」

 富江さんは、夜空を見上げた。


 「ニライカナイって?」

 「沖縄ではね、生まれた者の魂はニライカナイからやって来て、亡くなった者の魂はニライカナイへ帰っていく、と言われているようなの。遥か遠い、海の彼方にあるらしいわ。あの人、沖縄生まれなんかじゃないのに、おかしいわよね」


 ニライカナイという言葉の響きが、何故だかとても美しく感じられた。

 遥か彼方の海に浮かぶ、絶景の楽園…… こんなに美しい沖縄の島よりも、もっともっと美しく、痛みや苦しみの無い世界……


 海音の父親は、五十歳で亡くなられている。

 海音が十五歳の時だったそうだ。

 心筋梗塞で倒れ、それが引き金になって重篤な状態に陥り、急激に弱っていったらしい。そんな父親が闘病する姿を、海音は見守ってきた。

 死なないで欲しい、そう願っていた父親が発した、諦めとも取れるような言葉。

 そんな父親の決断を、海音はどのように受け止めたのだろう?

 海音も、ニライカナイというところへの旅立ちを想像しているのだとしたら……


 「富江さんは、旦那さんの意思を尊重されたのですか?」

 「ううん、結局決断出来なかったわ、心臓も肺も自力では動かないほど弱ってしまって、延命措置を取らなければ数時間で死を迎える、と聞かされた時、言葉を発する事が出来なかったの。結局、延命治療は行われた。だってまだ若かったし、お医者さんも、そうするのが当たり前のように一生懸命だったから…… もう回復の見込みがないって諦めてはいたけれど、あの人の手は温かかったの。話しかけても何も言ってくれないし、手を握っても握り返してはくれない。だけど手の平を通じて伝わってくる温もりを感じられるだけで、この人はまだ生きているんだって実感できたわ。だから、これで良かったんだって、自分を納得させようとしたの。でもね、あの人の望みを叶える事が出来なかった事には罪悪感があって…… 昼間はいいの、色々とやる事があったから…… だけど夜になって布団に入っても…… 眠れなくてね……」


 富江さんは空に浮かぶ無数の星を見つめながら、語った。

 「結局、あの人は一ヶ月も経たずに死んでしまった。さっさとニライカナイへ旅立って行ったわ…… 私が苦しんでいる姿を見ていられなかったのでしょうね、きっと……」


 富江さんの瞳が潤んでいた。でも悲しそうな表情ではなく、どちらかと言えば、遠い昔の思い出を振り返り、笑みを浮かべて懐かしんでいるように見える。

 どんなに悲しい出来事も時間が経てば、思い出となって懐かしむ事が出来るようになる、そんなものなのだろうか……


 私の心は揺らいでいる。

 海音の死を受け入れる準備がまだ出来ていないからだと思う。

 たとえ意識が戻らなくても、身体から温もりを感じられるのならば、いつまでも生きていて欲しい。

 でも、その為に海音が苦しむのだとしたら、それにそんな姿を見られたくないと思っているのだとしたら、海音の意思を無視する事は出来ないとも思う。

 

 人は意識を無くして、放っておいたら死んでしまうと言う状況に陥ったとき、それはどういう状態なのだろう…… もう何も考える事はなく、死んでいるのと同じ状態なのだろうか?

 どこかで聞いた話では、意識が無くなって何の反応も出来なくなったとしても、周りの声や、匂いは最後まで残っていると聞いた事がある。もしもそうなのだとしたら、それは死んでいる事にはならないんじゃないか……

 だけど、もしも痛みを感じていて苦しんでいるのだとしたら……

 答えの出ない仮定ばかりの空想が、次から次へと浮かんできて、私は頭をかきむしりたくなる程、落ち着かなくなっている。


 海音は、家の中で真琴のおむつを変えていた。

 これまでと何ら変わらない様子で生きている。

 それなのに……


 「汐里ちゃん、思い詰めなくてもいいのよ、残された者に、そんな重い決断をさせるなんて酷な事よね。その時が来たら考えましょう、海音の願いを受け止めた上でね」


 富江さんは縁側に置かれていたもう一つの琉球グラスを手に取って渡してきた。

 富江さんの存在が心強かった。きっと一人だったら押し潰されていたに違いない。富江さんと真琴がプツリと切れてしまいそうな私の心を繋ぎとめてくれている。


 渡されたグラスを手に取り、顔の前に翳した。

 青と緑のグラデーションが掛かった琉球グラスの中で透き通った氷が揺れている。

 グラスに口をつけて、氷で薄まった泡盛を喉へ少しだけ流し込むと、ひんやりとした感触とほんのりとした甘み、それに芳醇な香りが口いっぱいに広がった。


 富江さんの優しい笑顔に誘われて、私は思いがけず頬を緩めた。

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