動き出した時計

 真琴が生まれて一年が経った。


 海音の子煩悩ぶりには呆れるほどだ。

 オムツを交換するのも、お風呂に入れるのも、泣いているのをあやすのも、海音が一人占めしてしまい、母親の役割の多くを奪われた。


 その姿はとても微笑ましい。

 夫から、父親と言う立場へ変わってしまった事に、ジャラシーを感じない訳ではなかったが、我が子を愛しむ姿は、男としての魅力を損なうものではない。


 でも海音のそんな振舞いが、幼い真琴の心に、自分の記憶を必死に刻み込もうとしている健気な姿に見える事がある。

 いったんそんな風に思ってしまうと、海音が悲しく見えて仕方が無かった。

 もしかしたら、海音は自らの死期を悟っているのかもしれない。


 夏の終わり頃から、海音の様子が少し変わってきた。

 富江さんの畑作業を手伝う事は殆ど無くなり、ゲストハウスの仕事も最低限の事しかやらなくなった。


 それまではお客さんを海へ案内したり、長々と雑談を交わしたり、夜遅くまで酒宴に加わったりして、こちらがヒヤヒヤするほど親しく接していたのだが、近頃は、そういう光景が見られない。好評だった一日観光ツアーも最近は受け付けていない。


 それは真琴の子育てがあるからなのかもしれないが、何となくそれだけでは無い気がした。以前のような溌剌とした姿が鳴りを潜め、すっかり落ち着いてしまったように思えるのだ。


 特段、具合が悪そう、と言う訳でもないので、口に出して様子を聞くような事はしていないが、何となく元気が無い様に見えて気掛かりだった。

 父親になって落ち着いただけで、病気とは関係ない、そうであって欲しいと願っていたのだが、その願いが叶わない事を後日知らされる。


 月に一度の検査を受けに行ったとき、恐れていた言葉を医者から告げられた。

 心臓に悪化の兆候が見られる、と言うのだ。

 沖縄へ来てから二年、いつかは、と覚悟していたが、心のどこかで、来ないのではないか、と期待していた。そんな、いつか、がとうとう訪れてしまった。


 病院へ行く時、真琴は富江さんに世話してもらうので、帰り道は月に一度のデートを楽しむのが恒例だったが、とてもそんな気分にはなれず、病院を出てからどこへも寄らずに帰ってきた。


 病院を出た時からずっと、海音は澄ました顔をしている。

 でもその顔は、動揺を抑え込もうとして平静を装っている、と言うのとは少し違っているようで、ひと言で言うなら、素顔のまま、そのものだった。

 

 そんな海音を受け入れる事の出来ない私は、掛ける言葉を失っていた。

 だから病院から備瀬へ着くまで、会話は殆ど無かった。

 海音が少しでも取り乱してくれたら、慰める事だって出来たと思うのだが、全てを受け止めてしまったように振舞われたら、慰めようがない。


 私は泣きたかった。そんな現実は受け入れられない、と大声で叫びたかった。

 でも私の性分ではそれが出来ない。

 それに重い病を抱えて、いつ命が燃え尽きても不思議では無い、という海音の状況を受け止めた上で一緒に暮らしてきたのだから、乱れる訳にはいかなかった。


 家の近くまで来た時、海音が、フクギ並木を歩こう、と言うので、二人で歩く事にした。

 海音と並んで二人きりでフクギ並木を歩いたのはいつ以来だろう。

 家から近いので、ここを歩く事はしょっちゅうあるが、いつも真琴や富江さんが一緒に居たから、二人きりで歩く事なんて殆ど無かった。


 そこには、いつもと同じ空気が流れていた。

 フクギ並木は、強い日差しを遮り、潮の香りを含んだ心地よい風を届けてくれる。

 私達を包み込む空気は何ひとつ変わっていないのだと思う、それなのに何故か重たい空気に包まれているように感じられた。


 並木道を抜けたところに置かれている錆びたベンチに腰を下ろした。

 海音は海を見ながら、微かに笑みを浮かべている。

 何か言ってくれるのでは無いか、と横目に見るが、海音は何も言わずに、ただ海を眺めている。


 「海音、大丈夫?」

 沈黙に耐え切れず、言葉が零れた。

 「うーん、大丈夫ではないかな…… 死ぬのはそんなに怖くはないけど、汐里や真琴と別れるのはやっぱり辛いよね…… だから深く考えないようにしている。考え出すと何も見えなくなってしまいそうだからね。汐里は大丈夫?」


 「大丈夫じゃないよ、こう見えても、泣き叫びたいくらい心の中は乱れている。でも、そんな事をしたら、海音を困らせてしまうだけでしょ。だから……」


 これ以上、話し続けたら、堪えていたものが崩壊してしまいそうだった。

 だから言葉を紡ぐ事が出来なかった。

 人生の重大な局面に立たされているのだから、もっと激しい感情がぶつかりあって、お互いの心を曝け出せたら良いのに、と思うのだが、何故だかそれが出来ない。


 ただ静かに時間が過ぎ去っていく、それは、もしかしたら良い事なのかもしれないが、やっぱり切ない。

 「カチ、カチ、カチ……」

 海音が小さな声で言った。


 どうしたのだろう、と海音に視線を向けると、海音は私の目を見つめ返して話を続けた。

 「とうとう動き出しちゃった……ね」

 微かな笑みを浮かべて話す海音が、いつもと全然違う人に見えた。

 私は海音を見つめるだけで、返す言葉が見当たらない。


 「動き出しちゃったけど、終わった訳では無いからね。まだ時間は残されている。精一杯生きるよ、汐里と真琴の為にもね」


 海音は視線を海へ戻した。

 海から吹く風は、呼吸をしているように時に優しく、時に強く吹きつける。

 海音は静かに目を閉じて、潮風を頬で感じていた。

 微かな笑みを湛えたその表情は、とても穏やかで、放っておいたらいつまでも、そのままの姿で居そうな、そんな雰囲気だった。


 もう何もいらない、この時間が永遠に続いてくれるのならば、それだけで充分だと思った。

 海音の傍で、穏やかな時間をいつまでも過ごしていきたい、私の願いはそれだけなのに、それが叶わない現実が迫っている。


 海音はゆっくりと瞼を開き、私の目を見つめた。

 その瞳には、それまでとは違った意思が漲っているように感じられた。


 「ひとつ約束して欲しい事があるんだ……」

 

 そのひと言だけを聞いて、何となく重たい空気を感じた。

 海音は何か重大な決意を語ろうとしている。

 きっと簡単には受け止められないような事だろう、そう思った私は咄嗟に目を伏せた。

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