おばぁの死と艶子さん

 二月のあたま、今帰仁城の寒緋桜が満開になろうと言う頃、近所に住んで居たウシおばぁが死んだ。享年は九十九歳だった。


 真琴が生まれた日に、かじまやーのお祝いをしたヨネおばぁのお姉さんだ。

 旦那さんを戦争で失ったウシさんは、それからずっと未亡人で、ヨネおばぁと一緒に暮らしていた。


 朝の十時頃になると、庭で採れたシカクマメやらゴーヤやらをザルに盛り、えっちら、おっちらと二人でうちの庭まで歩いてきて、縁側にちょこんと腰を掛け、サンピン茶を飲みながら、お喋りをしていたおばぁ達。


 二人がやってくると私は仕事を中断して、二人の間に挟まれて、右を見たり、左を見たり、おばぁの顔を交互に見つめながら、話しに夢中になっていた。

 二人のおばぁのお話は、楽しい事が殆どだったけれど、時に切ない思い出が混ざっていたり、ひどく悲しい出来事も含まれていた。

 だけど、そんな話をする時でも、いつも笑顔で、そのしわくちゃの笑顔が可愛いらしくて、私が、大丈夫って聞くと、いつも、「なんくるないさ」、と言う返事が返ってくる元気一杯なおばぁだった。


 いつまでも、そんな日が続くと思っていた。

 誕生日が来たら、百歳のお祝いを盛大にしようね、と約束をしていたのに……


 お葬式の日、海音は祭壇に向かって他の人よりも随分と長く手を合わせていた。

 海音はウシおばぁの死をどのように受け止めたのだろう……




 それから数日後、ゲストハウスに男女の二人組がやって来た。

 女性のほうは、つばの大きなピンク色の帽子に、ひまわり柄のワンピース。男性のほうは白いキャップ、黒いティーシャツにグレーの短パンを履いて、大き目のサングラスを掛けている。


 別に服装だけを見ていたら、どこもおかしくはないのだけれど、女性のほうは、やけに大柄で、男性のほうは普通よりも背が低めだったから、何となく違和感を持ったのは確かだ。

 

 海音はお客さんを美ら海水族館へ送りに行き、富江さんは買物に出かけていた。

 だから受付は私が担当する事になった。真琴はベビーカーの中でぐっすりと眠っている。


 「ねぇ、これって本名よね?」

 そう囁く女性に向かって、男性のほうは何も言わずに小さく頷いた。


 宿帳に本名を書くかどうか、私は深く考えた事がない。

 仮に偽名を書かれたとしても、黙っていられればそれまでなので、私が追求する事はないだろう。でも目の前で、本名よね? と呟かれてしまうと、さすがに気にせざるを得なくなる。


 私の視線が、ボールペンの先に注がれている中、女性が書いた名前は、大貫健二

 で、男性が書いた名前は、小俣沙智子だった。当然の事ながら、頭の中に疑問符が浮かび上がる。


 見過ごすべきか、問い質すべきか、迷った。

 でも、問い質すにしても、何と言ったらよいのか適当な言葉が思いつかない。

 私は、二人の様子を上目遣いで探り、途方に暮れた。


 迷っている私を見透かすように、二人の視線が私に注がれる。

 思わず零れ出る苦笑い、二人の目を交互に見つめ、私は身動きが取れなくなった。


 「偽名を使っていると思ってるんでしょ! ちゃんと本名よ!」

 女性のやや野太い声が飛んできた。

 男性はポケットに手を突っ込んで、受付テーブルのシーサーを眺めている。

 私の口は固く結ばれてしまい、解きたくても解けない。

 

 「あなた分かりやすいわねぇ、全部、顔に出ちゃっているわよぉ」

 悪戯っぽくニヤリと笑う女性を見て、ある仮説が頭の中に浮かび上がった。


 私が女性だと思っていた人が男性で、男性が女性なのでは無いかと……

 背格好、声の感じ、名前、どう考えって、その推理が正しい。

 だけどこういう場合、どう対応するのが正解なのか、私の思考回路では導きだせない。

 「……」

 すると、そこへ海音が現れた。

 

 「あれ、艶子さんだ! それに一平くんも!」 

 「あらぁー海音ちゃん! どうしちゃったのよぉ、黙って沖縄に帰っちゃうなんてさぁ……」

 大貫健二と言う名前を書いた女性風の人が海音に抱きついて、大きな声をあげる。その声があまりにも大きかったせいか、真琴が目を醒まし、大声で泣き始めた。

 私は真琴を抱き上げ、それと同時にほっと胸を撫で下ろす。

 海音とお客さんがどういう関係なのかは知らないが、取り合えず窮地は脱した。


 真琴をあやしている私の目の前で、海音達の会話が弾んでいた。

 どうやら、海音は新宿二丁目にある、オカマバーで艶子さん(大貫健二)と出会ったらしい。オカマバーと言うのが正しい呼び方なのかどうか、私には良く分からないが、海音も艶子さんも、そう言っていた。


 初めてそのお店を訪れたときの海音は、酷く荒れていて、浴びるほど酒を飲み、一人で勝手に酔いつぶれていったそうだ。

 きっと病気になって、会社を辞め、自暴自棄になっていた頃だと思う。

 何故、海音が艶子さんのお店を選んだのかは本人も良く分からないと言う。荒れていた時期だから、お酒が飲めればどこでも良かったのかもしれない。


 海音が、お店にやって来るときは、大抵、酔っ払っていて、とても上機嫌だったそうだ。それが、酒を飲むペースが上がると、段々と気が荒くなって、乱れていく。

 海音ほどのルックスだから、いくら乱れたって、お店のお姉さん達には大人気だった。だから海音は、格好のターゲットだった。

 それを救っていたのが、その店の最年長、艶子さんだったと言う。

 正気ではない海音が、沼に落ちていくのを見ていられなかったのだそうだ。


 艶子さんには彼氏が居た。彼氏と言うのは一平さん(小俣沙智子)で、二人はトランスジェンダー同士のカップルと言う事になる。

 ちなみに艶子というのは、お店での源氏名らしい。

 お店で酔いつぶれた海音を、艶子さんと一平さんは同棲している部屋へ連れ帰り、介抱した。どうして海音がこんなむちゃな飲み方をするのか、そんな事は聞かずに、二人は、ひたすら海音の面倒をみた。


 その後、海音はホームレスのお爺さんと出会い、生き方を改める。

 艶子さんが勤めているお店を、海音が再び訪れたのは何年か経ってからだったらしい。

 その時の海音は、以前とは態度も、雰囲気も全然違っていて、お酒を飲んでも乱れる事はなく、逆にお店のお姉さん達の相談に乗ってあげるという優しい男になっていた。


 ある時、艶子さんは海音に相談した。

 それは、性別適合手術をすべきかどうかについてだった。

 海音は親身になって相談に乗った。

 この先の人生を考えたとき、どうするのが正解なのか悩んでいた艶子さんに、海音は言ったそうだ。

 

 正解なんて、一年後と十年後とでは全然違ってくる。だから何が正解なのか、そんな事で悩むよりも、本当にどうしたいのか、自分としっかり向き合ったほうが良い、と。


 「海音ちゃんが言ったのよね、『結果がどうであれ、自分で選んだ道を堂々と進んで行く姿は、素敵だと思うよ』って。最高の笑顔を浮かべてさ…… それで決めたのよ」

 そして艶子さんは、女性として生まれ変わった。

 

 その晩、ゲストハウスの中庭には、大きな笑い声が響きわたった。

 「もう最初にお店に来た時の海音ちゃんったらさ、三角の目をして、やさぐれちゃって、最悪だったんだから…… お高いボトルをドンドン開けて、ガブ飲みしちゃってさ、手に負えなかったのよぉ。それでも男前でしょ、だからお店の娘たち、色めきだっちゃって。内面は女だけど、体力は男でしょ、だからもう心配で心配で…… なんか、放っておけなかったのよね。別に店の娘と、どうにかなっちゃったっていいのよ、でもさぁ、海音ちゃん、普通の状態じゃ無かったからね…… ねっ」

 艶子さんが、海音にピッタリとくっついた。


 「あたしには一平が居たからさ、海音ちゃんに気がある訳じゃなかったんだけど、なんだか荒れてる感じが、昔の自分と重なったのよね。あたしも色々とあったからさ……」

 そう話す艶子さんを見て、海音は恥ずかしそうに頭を掻いた。


 新宿での思い出を艶子さんは大きな声で話した。海音の太ももを叩いたり、腕を組んだり、それを私と一平さんは複雑な顔で見ていたのだけれど、何だかとても楽しい夜だった。


 男性に生まれ変わった一平さんは、わりと無口で、いつも艶子さんを見守るような感じで、小柄ではあったけど、芯の強さが感じられる人で、二人の相性はぴったりなのだなと思った。


 こういう幸せもあるんだな……

 今まで出会った事の無かった人達と触れあって、そんな気持ちが湧いてきた。


 性別とか、容姿とか、社会的な地位とか、そういうものを気にせず、誰とでも正面から向き合える海音がまた一段と誇らしく思えてきた。


 私が知らない海音の世界って、まだまだたくさんあるんだろうな……

 艶子さんとじゃれあっている海音を見つめながら、ふとそんな事を思った。


 二日後、艶子さん達は帰っていった。

 海音が沖縄へ帰ってきた理由を知った艶子さんは、帰り際、うっすらと涙を浮かべていた。


 「海音ちゃん、必ずまた来るからね」

 艶子さんはそう言って背中を向けると、振り返らずに去っていった。

 背中を丸めるようにして歩く艶子さんの腰に、一平さんは手を当てて優しく撫でていた。きっと、艶子さんは涙を見られたくなかったのだと思う。


 もう海音と艶子さんが会う事はないんじゃないか……

 何故だかそんな予感めいたものを、艶子さんの背中から感じた。


 海音の笑顔は、艶子さんの心にも、しっかりと刻み込まれている。

 その笑顔は、たとえ海音がこの世を去っても消える事は無いだろう。

 ずっと、その笑顔を抱えて生きていくに違いない。

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