美ら海水族館

 その日、海音は、美ら海水族館へ行かないか、と言いだした。

 新しい年を迎えて、二週間が過ぎた日の事だ。


 家から歩いて行けるほど近いのに、行こう、なんて言った事の無かった場所。

 いつでも行ける場所なのに、今まで一度も行った事がない、そんなところへ、真琴と私と三人で行きたい、と海音は、突然言い出したのだ。


 いつでも行ける場所へ今日行く、と言う事が、何故だか凄く不自然に感じられた。


 初めて訪れた美ら海水族館、そのスケールには圧倒された。だけど、正直なところ私の印象に残っているのは、巨大な水槽の中を泳ぐジンベイザメではなく、真琴を抱いて、それを見つめている海音の姿だった。

 優しい笑顔を湛えて真琴に話しかけながらジンベイザメを目で追う、そんな海音の様子を見ていて、もうじきこのような何気ない家族の一コマが訪れなくなるのかな、という気持ちが、私の頭に渦巻いていた。


 私は水槽の中の魚たちを見て、大げさなリアクションをした。

 大きな声で喜んだり、驚いたり、感心したり。連れてきてくれた海音に感謝の気持ちを態度で表す事が、今、海音に出来る精一杯の恩返しだと思ったからだ。

 きっと真琴の記憶には残らないだろう、いつか私が今日の思い出を語る事になる。楽しい思い出として残す為に、家族三人、幸せの絶頂であるかのように振舞った。

 幸せの絶頂であるかのように……


  その日の夕飯を食べ終えて、真琴に添い寝をしていた海音が、突然苦しそうな声を上げた。胸を抱えて蹲る海音の姿を目の当りにした時、思わず絶叫しそうになった。

 かろうじて冷静さを取り戻す事が出来たのは、海音の傍で真琴が眠って居たからだと思う。

 私は、握り締めた左手の人差し指の真ん中をぐっと噛み、必死に堪えて救急車を呼んだ。


 私は、真琴を富江さんに預け、海音と一緒に救急車に乗り込んだ。

 救急車の中で酸素マスクをつけて、隊員の処置を受けている海音を間近で見つめていたら、すぐ傍にいる筈なのに、何故だか遠い存在に思えてきた。

 そして同時に、もしもの時は…… と言った海音の言葉が壁になって、迫ってくるように感じられた。


 けたたましいサイレンを鳴らして走る救急車、私はその中にいる筈なのに、心をどこかに置いて来てしまったような気分で、目の前の出来事が空想の世界の様に感じられた。


 海音は救命救急センターに運び込まれた。

 救急車の隊員も、待機していた病院スタッフも、みんなが激しく動き回り、ストレッチャーに乗せられている海音は、あっという間に消えていった。


 私はどうしたら良いのか分からず、あわてふためいた。

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