潮愛
白金 将
馴れ初め
scene1: 黄昏の少女
世俗に刻まれた傷心を受け止める大海の呼吸――墨のような水面へ黄金色の太陽が沈もうとしている。真円を失う灼熱の光球は千切れ雲の端を茜色に焦がし、点在する岩礁が持つ表面の凹凸を影に塗り潰していた。
昼盛りでさえ灰と見紛う砂浜は案の定黒く特徴を失い、中で三角座りする少女には誰も気付かない。もっとも、浜にいるのは今のところ彼女だけだった。
そこへ、籠付き自転車の錆びたブレーキが劈いた。砂浜から遠く離れたアスファルトにセーラー服の女子高生が足を付けて景色に見入っていると、視線の先で生気のない人影がゆらりと立ち上がる。
後から来た彼女が気にしている中、その影は一歩ずつ海へ向かって歩み始めた。
速い波が足元を浚う。白泡がくるぶしを囚える。足首が浸かり、脛が濡れ――
「待って!」
恐ろしい予感に駆られて走り出す。ローファーで浜を抉り、幾つもの足跡を付けた先で帰心の少女へ手を伸ばす。膝で水をかき、スカートの端を濡らしてようやく抱き留めた。
波が太腿で揺れていた。追いつかれた彼女は背を向けながら息を漏らして笑う。
「
「……知ってるの?」
「声で分かるって。『
不思議な縁の巡り合わせであった。
漁師の町でありながら身近に山のある
問題の少女は悪びれる様子もなく向かい合う。同じ学校のセーラー服を着ていた。夕日は一悶着の間に姿をくらまし、辺りは赤紫色に錆び始めている。
「私のこと、知ってる? 去年から同じクラスだけど」
「……ごめんなさい」
「まあそうだよね、学校全然行ってなかったし。私のことは
「えっ、それって本名じゃないよね」
「別に良いじゃん。親の付けた名前なんて、全然好きじゃないし」
朱里は、残り日を背に受けながら右手を取った。自転車のハンドルで擦れた黒ゴムの粉が移ったが、彼女はたこで膨らんだ澪の中指をなぞりながら艶然と笑っている。澪は怯えたように顔を背け、目を合わせないようにしていた。
「澪は、帰らなくていいの?」
「急がなきゃいけないけど、でも――」
「ああ、私のせいだったね。大丈夫だよ、今日のところは大人しく家に帰るから」
「じゃあ、一緒に帰らない?」
「それは嬉しいけど、多分、あんまりいい目で見られないと思うな」
澪の脳裏には怒鳴り声を上げる母親の姿があった。その理由は、頼まれていた買い物の帰りが遅れているからでも、腿から下が潮に濡れて洗濯が手間だからでもない。
八浦町で育つ子の親たちにとって、澪の生まれた浅海家と朱里の生まれた船場家は反りが合わないことで有名だった。そしてそれは地域活動の場・会議において度々現れる。端から見れば重箱の隅を突くような議題でも、この両家にとって、相手を言い負かせるなら何でも武器にされていた。
澪の父親は地方議員の一人。その影響で母親の発言力は高く、従う者も多い。一方、朱里の母親は小・中学校のPTA会長を務めたことで影響力があり、会議においても常に主導権を握らないと気が済まない。互いに思うようにならず睨みを利かせる両家が、あろうことか川一本挟んだところに位置していたのだ。
「お母さんのことなんか私はどうでもいいけどさ。澪はそうもいかないでしょ」
「そんなことない。今日、朱里と話せて良かったと思ってるし、また明日も」
「駄目だって。まったく、聞いた通りに頑固だね……いい? 私にはあまり近寄らないこと。ほら、早く上がらなきゃ風邪引いちゃうよ」
浸かっていた腿は既に青い。夕暮れが海の向こうへ引き込まれる中、朱里は澪の後ろをそっと指さした。倒れた自転車の籠から野菜が転がっていた。
慌てて澪は海から上がり、ローファーと靴下を砂塗れにし、自転車を立て直す。荷物を全部入れてから朱里を探すと、彼女は赤紫色に染まった海の中でじっと動かずに立っている。スクールバッグの中で震えるスマートフォンに気付くと、二度ほど視線を合わせてから、塩気た風を切って浜を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます