泥の中で呪い合う
scene26: 焦れったい
「澪、早く起きなさい。遅刻するわよ」
「うん、いまいく……」
うんざりするほどに晴れた空の下、セーラー服姿の澪は大きな欠伸と共に自転車を転がしていた。同じ方向へ向かう学生の列に出くわした時に目当ての人物を探してみるが、あの綺麗な黒髪を見つけることはできない。
一分でも早く、一秒でも早く、澪は立漕ぎで高校前の坂まで急ぎ、そこから先は自転車を押しながら駆け上る。朝から汗だくになった澪が教室に入るとエアコンの冷風が流れ込んで震えてしまった。
さっそく"彼女"の姿を探してみる。すると、窓際に見たことのある影が立って遠く海を眺めていた。周りで雑多な集まりを作るクラスメイトの存在を厄介に思いながら、普段通りの距離で接しようと後ろへ歩み寄る。
席にバッグを置いてから、耳元に囁きかけるのを名目に自分より少し広い肩を掴み、互いの背中と胸元を擦り合わせる。
「おはよ、朱里ちゃん」
「澪、近いよ……」
「えっ」
「離れて。みんなが見てる」
小さな声で警告された澪は慌てて距離を取って周りを確認する。教室の中にいた何人かは二人のことを見ていたらしく、澪が注意を向けると何も見ていなかったように視線をそらす。朱里はひどく悲しそうに微笑んだ。一昨日はあんなに近くまで寄れたのに、お互いの誰も知らない姿を見せ合えたのに……澪の心の中では相変わらず隙間風が吹き続ける。
切なさの孕む視線を絡みつけるように互いを見つめ合っていると教室に香里奈が入ってきた。念願の逢瀬もそこそこに、二人は晴れない気持ちのまま自分の席に戻る。
「はい皆さん、おはようございます。古典の解答用紙のことですが、採点が朝に間に合わなかったので、今日の帰りに返しますね――」
二人が"親友"の関係になってから澪の心は常に引力を受け続け、今はもう修復不可能なまでに変質してしまっていた。彼女に命を拾われた朱里もまた、生活の中で無意識に澪への依存を強めていく日々を送っていた。
某日の風呂場での抱擁よろしく、互いにもたれ掛かるような二人は既に一人の力だけで立ち上がることも難しい……殻のように生気の抜けた澪は、クラス担任である香里奈の話のほとんどを聞き漏らしてしまっている。
「明後日から夏休みですが、体調には気をつけてくださいね。大学受験を考えている方は特に……」
ああそうだった、そんなものもあった、と澪は部屋に積まれてある参考書の山を思い返す。最近はあの中の一冊にも手がつけられていなかった。
これではいけない。それは分かっているのに、一人になった時からずっと寒気のする孤独が澪の身体を縮こませてやまない。
「澪」
呼ばれて顔を上げた時にはもう朝のホームルームが終わっていた。移動教室のために教科書などを手元に抱えている朱里が気まずそうに見下ろしている。
「時間割変更あったじゃん。次は音楽だよ」
「え、あっ……」
「もしかして、教科書忘れてきた?」
「……うん」
「しょうがないなぁ、隣で見せるよ」
その日、澪はこれまでの心細さを埋めるように朱里のことを見続けていた。音楽、数学、英語……そして、昼休み前の体育でも、澪の視線は彼女へ惹きつけられる。
何もしないでいると込み上げてくる気持ち悪さから逃れるため、準備運動の時間を終えた澪は朱里の元へ駆け寄った。
「えー、今日晴れてるのにマット運動かぁ」
「私は……今日調子出ないから、こっちの方がいいかも」
「そっか。あ、そこのマット空いてるから二人で使おうよ」
体育館の隅にあった空きマットに二人で並んで座る。澪も、朱里も、土曜日の夜のことを思い出して口数が減ってしまう。周りの女子たちが動き始めたのに合わせて朱里は立ち上がる。
「澪。ストレッチ手伝ってくれない? 変な怪我したくなくてさ」
「いいよ。どうしたらいい?」
「背中をグッと押してほしい……私、結構柔らかい方だから、遠慮なくやって」
ぺたん、と尻をつけたまま足を伸ばす朱里。重い身体で後ろへ回った澪は膝で立つ姿勢で受理の背中を両手を置く。体育着の下から伝わる温かさに頬ずりしたくなる気持ちを堪え、そのまま力を込めてみる。
朱里の身体が沈み込んだ。澪はもう少しだけ押してみる。まだ余裕がある。
「澪、もっとしていいよ」
「うん……」
「大丈夫だから。全身を使ってみて」
いまやっているのはただのストレッチだから――澪はそう自分に言い聞かせながら朱里の背中に取り付き、二人で一緒に前のめりに身体を曲げる。久しぶりに身体で感じたあの温かさに、澪はこれ以上無い安堵感と懐かしさを覚えていた。
次は澪が押される番だ。背中にぴたりと張り付く大好きな人の身体はまさに彼女が求めていたもので、多幸感に塗れた澪は魂の抜けたようなだらしない顔へ変わる。
「ぁ、これ好き……」
「静かにして。澪のその声、他の人に聞かせたくない」
「う、朱里ちゃん、ごめん」
運動前に軽くほぐした後、朱里は柔らかい身体を見せつけるように開脚したままゆっくりとマットの上で転がってみせた。すぐ隣にいた澪は恍惚とした様子で口を開けている。
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