scene13: 空に雨雲、教室に嵐

 晴れ続きだった八浦に雨雲が立ちこめていた。白い雨合羽を被った澪は同じ姿の高校生らと同じ塊になって校舎を目指す。遠くに見える海も白く煙る中、自転車小屋で水滴を振り落とした後、折りたたみ傘を片手に生徒玄関へ駆け込んだ。

 久しぶりの雨で、校舎内の雰囲気も妙に沈んでいる。だが、この日は以前の雨日と比べて明らかに状況が違っていた。普段は教室にいるはずの女子生徒の一団が廊下に出て、グループの外に聞こえないような声でひそひそと何かを話し込んでいる。そして彼女たちが澪を見つけた時、一瞬だけ合った視線をすぐに逸らしたのだった。


 腹に隙間風吹くような疎外感は何度も感じたことはあったが、今日はそれに怖れのニュアンスが混ざっている。状況を把握できていない澪が教室に入ると、高校以前から彼女を知るクラスメイトが何人か一斉に振り向いてきた。

 その原因はすぐに判明する。

 澪が向かおうとした席には、既視感のある後ろ姿が既に座っていた。セーラー服の上に長い髪を垂らした彼女は気配が変わったことに気付くと僅かに振り返る。


「久しぶり、澪。私の名前覚えてる?」

「え……?」


 その人は確かに、澪が何度も朱里と呼んだ相手だった。先手を喰らった澪はその言葉の意味を考えた後、朱里の本当の名前を思い出そうとするが、彼女の名字である船場から下が出てこない。

 そして、まるで何日も会ってないかのような口調だったことも混乱を招いた。周りから嫌な注目を集めていた澪は、今の困惑を顔に出さないよう気を払う。


「……そこ、私の席なんだけど」

「ああごめん、久しぶりに来たから席が分からなくてさ」

「あっちだよ。早く席返して」

「はーっ、久しぶりに来たってのに冷たいなぁ、まったく」


 雨降りもあって疲労困憊の澪。朱里は口の端を上げながら渋々立ち上がる。温まっていた椅子を取り返した澪はようやく身体を落ち着けた。元の席に座った朱里は窓の方を向き、雨雲で暗くなった海を見つめ始める。

 波風立たず、平穏だった学校生活が朱里の存在で一変してしまった。次からどう声を掛ければ良いか考え始めた澪だったが、彼女の下の名前が分からない現実を思い出すと、どこで名前を確認できるか思考を巡らせる。


 誰かが朱里のことを呼ぶのを待とうとしたが、すぐにそれは無駄骨だと悟る。船場、という特色ある名字をしているせいで周りの人間は彼女を「船場さん」と呼ぶのだ。実際のところ、澪自身も「浅海さん」と呼ばれることが多い。

 次にクラス名簿で確認しようとしたが、学級委員ならともかく、クラスの隅で悪目立ちしないことを是としてきた澪はその在処を知らない。横の繋がりも希薄なものだから他の人に聞くことも難しい。クラス担任である香里奈ならば答えをくれるかもしれないが……


「皆さん、そろそろ席についてください……わっ、船場さん!? 久しぶりね!」


 朝のホームルーム開始を告げる香里奈の声。それが驚きでひっくり返る。

 これが終わったら朱里のことを聞こう、そう思っていたら――


「――船場さんの下の名前? 勿論知ってるけど……でも、力になれないわ」

「えっ、湊先生、どうしてですか」


 ホームルームの後、職員室へ戻る香里奈の横を歩きながら澪が質問をぶつけるが、その答えは芳しくなかった。何か事情を抱えている彼女は明らかに答えに窮していたが、澪が不貞腐れた視線を送ると、観念したのか職員室の前で囁いた。


「実はね、船場さんに、言わないでって口止めされてるの」

「口止め?」

「浅海さんが聞いてくるかもしれないけど、その時は答えないでって……変わった遊びしてるみたいね。先生は力になれないけど、浅海さんならなんとかできるわよ」

「ええっ、あ、行っちゃった……」


 求めている情報を得られなかった澪は肩を落とすが、今の彼女にうなだれている時間は無かった。次の授業に遅刻しないよう慌てて教室に戻ると、問題の人物がおかしくてたまらない様子で笑いを堪えていた。その態度が気に入らずに不満な顔になると周りの好き者は噂し始めるが、そんなものは二人の世界を茶化せない。




 ようやく試験範囲に追いついた数Ⅱの授業が終わって昼休みになるが、澪の頭は“朱里”の名前でいっぱいだった。予習の甲斐あって惨事は免れるも、ノートのところどころに写しきれなかった空白が生まれている。一方、澪をこんな風にした原因の人物は授業中に教科書へ隠した漫画アプリを読みふける始末だった。

 授業の先生がどう呼ぶか注意深く聞こうとしても、久しぶりに登校した朱里とは距離感の測り方が分からないせいか当てられることは無かった。持ち物の中に名簿が無いかと横目に覗いてもみたが、あいにく何か別の物の下になっていることが多い。


 他の人たちの話を盗み聞きしてみても、朱里は相変わらず「船場さん」だった。成果が得られないどころか、澪に関して「話しかけづらい」という不名誉な称号が与えられていることも知ってしまった。それはそれで落ち込むことだが、今の澪にとってはほんの些細なことでしかない。

 何か行動するしかない――煮詰まった澪はきれいな笑顔を作ると、耳にイヤホン差しながらコンビニの幕の内弁当を食べている朱里の元を訪れ、机を人差し指の先で叩く。いかにもめんどくさそうに、芝居がかった素振りで朱里は顔を上げてきた。


「せっかくサビだったのに……」

「何聴いてたの?」

「ミスチル。さっきまでスピッツも聴いてた」


 残念ながら、勉強詰めだった澪にとっては守備範囲外であった。


「へえ……」

「それで、どうしたの?」

「さっきの授業のノート、貸してくれない?」

「ノート? いいよ、持ってって」


 再びイヤホンを差して閉じこもった朱里。少し角の曲がったノートを借りた澪は席に戻って確認するが、表紙と裏表紙を見ても何も書いていない。まさか、と思って中をめくってみると嫌な予感が的中した。ページは一部を除いて全て真っ白で、ほぼ新品のものを使い古した物に見せかけていたのだ。

 そして、唯一文字が書かれていた最後のページの隅には――


『澪ってかわいい下着付けてるんだね』


 ――覗いてくる不届き者が現れる前にノートを急いで閉じた。

 せっかく頭の外に閉めだしたはずの昨日のやりとりが蘇り、みるみるうちに首から上が熱を帯びていく。要らない恥をかかされた澪が朱里を睨み付けると、彼女は口元を手で押さえながら吹き出すのを堪えるように肩を震わせている。

 たまらず立ち上がって机の側まで詰め寄る。朱里は、脚の横で拳を作る澪を見上げると、目の端に涙を浮かべたままわざとらしく机を叩いて面白がった。


「なに、ノート読んでも分からなかった?」

「いい加減にして!」

「あっはっは……そうそう、帰るまでには答え出しといてよ」

「ねえ、私の話聞いてる?」

「勿論、全部聞いてるよ。全部ね……」


 つかみどころがない彼女を前に澪は続く言葉を失った。朱里から勝手に決められたタイムリミット――放課後までに朱里の本名を探ろうとするならば、そのチャンスは今日最後の授業まで持ち越される。

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