scene14: 悋気は夏の雪
朝から降り続いた雨によって、最後の授業の「体育」はバスケットボールに変更された。男女別のコートでシュートの練習が行われている中、澪はその隅で一人ボールをついて頭の中を落ち着けていた。
目先の課題は、朱里の本名を探ることである。そしてこれが最後にして最大のチャンスでもあった。高校のジャージには生徒の名前が記されているため、どれだけ朱里が隠していたとしても、そこから“彼女”の名前を明らかにできる。名前の刺繍は長袖ジャージに記されているため今この瞬間は確認できないが――
「ねー、あたしとチーム組まない?」
「いいよ! ウチらと、あと三人は……」
周りでは他の女子がチームメイトを探している。澪も朱里の姿を探すと、リングの横でシュート練習をしている彼女を見つけた。クラスに何人かいる「バスケ部」の見よう見まねで繰り出されたそれは形こそ整っているが、肝心のシュートはリングの中に収まらない。
そして、バスケの神様はボールを澪の方へ弾き飛ばす。驚く間もなく取ると二人の目が合った。アプローチをかけてきた朱里は、半袖の体育着に快い汗の酸味を香らせていた。
「どうしたの? 澪は一人?」
「うん。運動はあまり得意じゃないから」
「チーム分けはどうするの? そろそろ練習試合の時間じゃん」
「それは、いつも通り、それなりに……」
あまり好きではない体育の授業。なるべく目立たないように、迷惑を掛けないように隅っこで振る舞い続けたことを思い出しているうち、周りでは徐々にチームの輪が作られつつあった。澪と朱里が残されていると、それを見た勝ち気な三人組がやってきて、なんとなくではあるが五人が揃うこととなる。
「浅海さんと……船場さんだっけ? あたしたちと一緒にやらない?」
「お、いいね。私と澪も入るところ探してて」
「じゃあ決まり! 二人ともよろしくね!」
遠くから体育教師のホイッスルが鳴り響き、それに合わせて人が捌けていく。ハーフコートでの練習試合だ。
澪たちのチームの試合は二試合目――授業の最後の時間に行われることとなった。他のチームが試合をしている間、体育館の端で三角座りした澪と朱里が並ぶ。彼女たちを誘った三人組が内輪で盛り上がっている間、試合に興味の無い澪は隣の朱里に目を向けた。
退屈そうにしている澪とは反対に、朱里はボールを操るクラスメイトたちの一挙一動をじっと観察し続けていた。ただの一言も話さず、彼女たちが繰り出すシュートの所作、ドリブルの角度、“フェイク”のタイミング、パスの回し方を見ては指先をひくひく動かし続けている。
「ねえ、朱里ちゃん」
声を掛けてみても反応はない。すっかり自分の世界に入ったようだ。二人だけで喫茶店を訪れたあの日もそうだった、と澪は膝に顎を乗せて眉を下げる。
言いようのない心細さを覚えているうち、いつの間にか第一試合は終了し、汗をかいたクラスメイトたちと入れ替わる。もう半分のコートで別のチームが試合をしているとは言え、澪は周りから注目されるこの時間が好きではない。
「澪、大丈夫?」
「平気。試合頑張ろうね」
精一杯の笑顔で澪はコートに出る。そのまま流れで試合が始まった。
基本的には二人を誘った三人組でボールが回っていくため、澪と朱里の出番は多くはない。時折横に零れたボールを頑張って拾いに行き、そのままパスを回してシュートを打ってもらう展開が続く。それでも澪にとっては普段以上の運動だ。
点数は五分五分。勝敗に執着は無かった澪だったが、次の点を追いかける展開に三人組はひりついていた。その空気が伝わってくるようで澪は縮こまる。何事も無いまま終わって欲しい――そう思っていた時、ディフェンスの隙間を縫った相手がリードを決める二点を入れてしまう。
残り時間は一分も無い。澪の心がきゅうっと締め付けられる。
「大丈夫、逆転できるよ!」
周りの鼓舞が澪の手足を固まらせる。
チーム全員でゴールを狙った時、破れかぶれで放たれたシュートがリングに弾かれて澪の方へ飛んできた。守りの薄かった澪は反射的にボールを取るが、シュートを打つよりも先に緊張が全身を駆け抜ける。
残り十秒。ほんの少しの硬直でも大きな差が生まれる場面。無意識のうちに動けなくなった澪の頭を様々な「結末」が埋め尽くす。そこへ――
「澪!」
自分の名前を呼ぶ声の方へ、澪はボールを目一杯の力でパスを出す。
そこには、朱里が立っていた。
今まで目立たないプレイをしていたこともあって相手チームのマークはない。スリーポイントラインの外、邪魔の入っていないフリーな状況でパスを受けた朱里はほんの僅かに膝と肘を曲げ、流線のようなフォームでシュートを放った。
どこにも力の無駄がない、非の打ちようがない姿勢。バスケットボールに精通していない澪でさえもそれが分かる。ふわりと舞う髪の毛、服の裾からほんの少し見えたお腹、綺麗に並んだ指先……
試合終了を告げるブザーが鳴り響く。
この光景を見ていた周りのクラスメイトらが、どっと沸いた。
「船場さん、すごい!」
「時間ギリギリで逆転ってめちゃかっこいいよ!」
「シュート綺麗だったし、何あれ、バスケやってたの?」
体育の時間はもう間もなく終わる。それまでの間、朱里の周りには彼女の功績を褒め称える人たちが集まっていた。“今日久しぶりに来た彼女”は既に“同じクラスメイト”として皆に受け入れられていたのだった。
澪は、集団の中に分け入ってまで朱里を褒める勇気を持っていなかった。腹の底が焼けた心地を覚える。体育着の裾を強く握り、奥歯をぎっと噛みしめた。
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