scene15: 窮猫が噛む
一日中降り続いていた雨が八浦を去った頃、高校では放課後の時間に突入していた。ホームルームを終えた澪はすぐに女子更衣室へ駆け込み、決死の形相で朱里が残していたスクールバッグを探し当てる。夕日色の石のストラップが決定打となった。
目当ての長袖ジャージを引っ張り出す。そこには「船場 ひめ」の刺繍が――
「あ」
夕方の砂浜で初めて会った時、彼女が「親の付けた名前は全然好きじゃない」と言っていたことを思い出す。そのまま、手に持っていたジャージをバッグの中にしまうと、湿った半袖に指先が触れた。
そのまま手を引っこ抜いた澪は、ほんの僅か湿った指先を親指と擦りあわせる。ふと、頭の中を先程の練習試合の光景が駆け抜けていくと、澪は静かにうなだれた。
悪い思いつきが、澪の人差し指を鼻の下へ持って行った。
ほんの微かに“朱里”が香った。冷たい震えが肩を心地よく縛り付ける。
「ぅ……」
反射的な鳥肌に抱きしめられながら、澪はそれを都合の良いように勘違いしていく。もう一度バッグの中に手を入れて匂いを嗅ぐ。先程の授業の記憶を引っ張り出し、腹の中の妬ましい怪物に一人エサを与えていく。それが喉元を食い荒らし、全身に不穏な熱を帯びさせた。
言葉にならない声を漏らしながら、汗の染みた半袖を引っ張り出して顔に押し当てた。自分が何をしているかも分からず、衝動に突き動かされるまま、スクールバッグに顔を突っ込むように悶え狂う。
「あぅ」
罪の意識が心臓を冷たく刺す。口から官能的な息が漏れる。
更衣室の外に足音が近づいてくると、澪は寂しそうに体育着を元の場所に戻した。程なくして誰かが入ってくる……朱里だ。いつになく真面目な表情の彼女は澪を真っ直ぐに見据えていた。
「よっす」
「……どうしたの?」
「や、それは私の台詞なんだけど」
真顔で距離を詰めてくる朱里。思わず後ずさる澪。
そうして窓まで追い詰められたとき、朱里は澪の頬にそっと顔を寄せてきた。
「澪って、良い匂いするよね」
「え、そう、かなぁ……」
「あと前髪、ちょっとだけハネてるよ」
右手を頭の方へ上げると、すぐに朱里の左手が手首を掴んだ。
早業だった。考える間もなく澪は壁に背中をつけられ、両脚の間に膝を入れられて動けなくなる。額が接しかねない距離で目をしばたたかせた。
「朱里ちゃん、なに……」
「変態」
その一言だけで、澪の身体から力が抜け、朱里の方へもたれかかってしまう。半開きになった口からは柔らかくなった舌が覗き、顎に溜まった唾液が煌めいていた。
「ちがう……」
「ちがわないよね。澪は、私の匂いが好きなんだよね」
「待って、やめて、そんなこと――」
「あーあ、せっかく親友になったのに、このままだと友情壊れちゃうねえ」
朱里が膝を離すと、澪は壁沿いにずるずるずり落ちて両肩を抱きながらプルプル震えるだけになる。そこへ更に追い打ちを掛けるように朱里は屈み、口の端を上げ、今にも泣き出しそうな澪の顔を覗き込んだ。
「もしかして――“親友”じゃ不満だった?」
ぐす、と鼻を啜った澪。そのまま、朱里の胸元に頭を押し当てて――
「ばか! ばかぁ……!」
両肩を掴み、腹の底に溜まっていた毒欲の化け物を吐き出した。突然の出来事に目を白黒させる朱里は、豹変した澪の態度をしばらく見ながら頭を回し、思い当たる節を見つけると慈しむ目に変わる。セーラーカラーを握り、大粒の涙を頬に伝わせた澪の爆発を受け止め続けるだけだ。
「ごめん、ちょっと意地悪しすぎた」
「ばかっ!」
「大丈夫だよ、どこも行かないから……」
最初の癇癪が収まってきた頃、女子更衣室の前の廊下に足音が迫ってきていた。朱里は澪を立たせると近くに丸まっていたカーテンの束の中へ隠す。置いてた荷物を取りに来たクラスメイトが入ってくると朱里はカーテンの外で場を繋いだ。
その間に、澪は朱里のセーラー服の裾をつまんで引っ張っていた。もう少しだけ寄って欲しいようだ。それに応えると、カーテンの中にいた澪が、周りに見えないように頬へ優しい口づけを送った。
「船場さん、今日のバスケ凄かったよ! じゃあね!」
「うん、ありがと。気をつけてね……」
二人以外の女子らが去った後、澪はにやにや顔で出てきて朱里の胸元へ寄り添う。すっかり気が晴れたようで、今度は朱里の方が押されかけている。
「澪……」
「ひめちゃんに仕返し」
「うっ、だから、ごめんって」
今までやってきたことの報い――そう言わんとばかりに澪は朱里の顔をつつき始める。逃げるために朱里はスクールバッグを持って更衣室を飛び出した。
帰りの支度を整えた後も追いかけっこは続く。教室の見回り中、外を走る二人を見た香里奈は少し安心したように微笑んでいた。
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