定期試験
scene12: 嘘をついた日
七月半ばも過ぎ、定期試験がいよいよ来週に迫っていた日のことだった。生徒たちの中に澪が紛れるように座っている中、教室の黒板の前ではクラス担任でもある香里奈が昼休み明けの古典の授業を進めていた。
欠伸をする学生が多い中、香里奈が定期試験範囲のおさらいを始める。それを聞いていた澪だったが、あるところでノートを取っていた手が止まった。
「清少納言の枕草子、皆さん覚えてますか? 内容をおさらいすると――」
あの図書館での一幕が蘇る。
例の空席に視線を動かすと、そこではセーラー服を着た朱里がにやにや笑いながら漫画本を読んでいるようだった。おそらく先生に何の質問をされてもそつなく答えてしまうのだろう。
「この"雪のいと高う降りたるを"は、筆者が仕えている中宮定子との出来事を記したお話で――」
何も目新しいことのない平穏な日常を送っているはずなのに、今の澪はそれに退屈を覚え始めていた。教室の窓から見える空も、その向こうに見える海も、普段と何ら変わらないはずなのに少しだけ色あせて見える。無意識のうちに、そんな景色を一気に壊してしまう”誰か”を求めてしまう。
腰の後ろにじりじりした衝動が溜まっていく。虫が這っているような感覚は次第に刺激を増していき、じっと座り続けることが厳しくなる。スカートの裾にスマートフォンを挟み、すこしだけ厳しい表情を作った。
「あの、湊先生」
「浅海さん、どうしました?」
「ごめんなさい、お腹痛くて……行ってきても良いですか?」
「いいですよ、お大事にしてください」
後ろめたい気持ちを腹に抱えて教室を抜け出し、なるべく足音を立てないよう気を配って廊下を行く。そのまま女子トイレの個室の一つに滑り込み、スマートフォンを取り出してから腰を落ち着けた。
肩の辺りが妙に寂しかった。澪はスマートフォンの音が切れていることを確認してからSNSアプリを開く。八浦の海を写真に使っていた“彼女”の反応を求めて。
『朱里ちゃん、今いる?』
授業をサボってまでどうして自分がこんなことをしているのか……絶対に親には見せられない姿であると自覚しながら焦れったい時間を過ごす。個室の外に注意を向けながら二分待った後、すぐに反応が返ってこないことを予測した澪は肩を落とす。
その直後、澪の送ったメッセージに反応が返ってきた。
『今って授業中じゃなかったっけ。サボったの?』
いきなり核心を突かれた澪は渋い顔になる。
『お腹痛くてトイレ 朱里ちゃんは何してたの』
『バイト先探してた そいや試験は?』
『木曜日から』
『へえ』
『明日、学校行くよ』
『え、嬉しいけど、本当に来るの?』
『別にいいじゃん』
『行きづらくない?』
『澪がいる』
その文言を見た澪は狭い個室の中でぽんと顔を赤くする。そして、朱里と一緒の高校生活を考えて、普段ほとんど他人と話さない自分が変に浮かないか心配になる。だが、それを自覚しても、胸の鼓動が高まっていることは否定できない。
思わず返信に時間がかかっていると、澪がメッセージを送るよりも前に朱里からのものが送信されてくる。
『で、なんで私にメッセ送ったの?』
少し考えて、澪は顔を熱くしたまま指を動かす。
『他に話す人がいなくて』
『うそつき』
『……寂しかったから』
『よし、ちょっと待ってて』
すっかりやり込められた様子で背を丸める。そのまま言われた通りに待っていると、五分ほど経ってから一枚の画像が送られてくる。
スマホの画面に表示されていたのは、黒い下着だけを付けた朱里のバストアップ写真だった。しばらく見入ってしまった澪は我に返った後、どう反応したら良いか分からずに眉間に皺を作る。写真の中の朱里は、普段よりほんの少しだけ目を細めて大人びた雰囲気の笑みを浮かべていた。
『どう、かわいいでしょ?』
『あんまりこういう写真は送らない方がいいよ』
『澪だけだよ、安心して』
『そうじゃなくて』
『澪の写真も送ってよ』
澪の手が止まる。顔は既に真っ赤に染まっていた。
朱里から貰った写真を見た後、澪は、スカートを下ろしたままセーラー服の裾を捲り上げる。自分の顔と、服の下に隠れていた水色のブラが一緒に写るように一枚を作り、震える指で画像を添付する。送信先を間違えていないか三回確認し、個室の隙間から誰かが澪を覗き込んでいないかも確認し、手早く身なりを整えてタップした。
澪の画像に反応があってもなお、返信はしばらく来なかった。心配になっているうちに終業のベルが鳴り、そのまま帰りのホームルームの時間に入ってしまう。かといって個室を出て行くわけにもいかず……
何十倍にも引き延ばされた時間が経つのを待っていると、念願の返信が届く。
『びっくりしちゃった、ごめん』
『恥ずかしかった……』
『普通の写真でも良かったのに!』
『え』
『一人トイレで何やってるのって思っちゃったよ』
ついに、澪の背筋がガッと燃えるように熱を持つ。スマートフォンを投げつけたくなる衝動を寸前で抑え、個室のドアに指を立てて行き場のない気持ちのガス抜きを試みる。それでも、自分がしてしまったことへの羞恥は次々と湧き出て仕方ない。
『でも、ちょっとだけゾクっときた』
『消して!』
『私の写真を消せたら、考えてもいいかな』
澪はスマートフォンのストレージを開き、先程送られてきた下着姿の朱里の写真を画面に映し出す。そしてそれを削除――しようとしたが、寸前で指が止まり、一旦画面を黒一色に戻した。
『消したよ』
『私も消した』
メッセージのやりとりを終えてもなお、澪が個室を出るまでにはまだ時間がかかるようだった。彼女を心配して呼びに来たクラスメイトが扉を叩くと、急いで苦しそうな声を声を作って乱れ気味の息を殺した。
その日、すっかり燃え尽きた澪が家に戻ると、リビングのソファに大きなサメのぬいぐるみが一個置いてあった。抱き枕と同じくらいに大きなそれは、前にネットで流行したものよりも更に一回り大きい。
「お母さん、これ何?」
「お父さんが澪に買ってきたのよ」
「え、お父さんが?」
肝心の父親は不在だった。ぬいぐるみを両手で抱きながら部屋に戻り、楽な格好に着替えてからベッドに転がり込む。巨大なサメを後ろから抱いて一人の寂しさを紛らしながら、朱里から送られてきた例の写真をもう一度画面に出す。
不思議と目を離せないまま、澪はじっとしていられずに尾ひれを脚で挟み込む。最初に出会った時の、あの抱き心地を思い出しながら、身が焼けるような感覚に悶え苦しむような呻き声を上げる。
写真の中の朱里は、そんな澪を興味深そうに見つめているようだった。
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