scene48: 運命を騙す
海の鳴き声は遙か遠くに遠ざかり、真青色に揺れる水面はシルバーのサッシで区切られた枠の中へ閉じ込められている。花瓶に入ったユリの花二輪が下を向く部屋に白く無機質なベッドが二台並び、その間では白衣の女性が丸椅子に腰掛けながら足を組んでいる。
日を跨いで午前10時。彼女の視線に映る二人の少女は、しばらく現世の外へ散歩した後に雲のようなベッドの上で胸元を静かに上下させていた。すべての苦難を忘れ去った安らかな顔には人工呼吸器が嵌められ、今できる限りの手は尽くされているようだった。
鯖之山町立総合病院。
その一室のドアがゆっくりと開けられる。中に、一人の女性が入ってきた。
「……青凪先生、いらっしゃいますか」
「来てるよ。おつかれ、香里奈」
入ってきたのは、
渚は、いつもの勝ち気な様子とは打って変わって、香里奈を心配するような目で見ながら肩に手を乗せた。
「ごめん、香里奈。こんなことに付き合わせてしまって」
「いいんです。生徒を助けるのが、教師の仕事ですから」
「無理は……させたのは、私か……」
「できることはやりました。やったんですよ、青凪先生」
気丈夫に振る舞おうとする香里奈も声に覇気が宿っていない。少しふらついた彼女を見かねた渚は、手を宙に置いたまま僅かにためらった後、意を決して香里奈の身体を引き寄せた。まだほんのりと湿っている。
「言われた通り、あの場所で、合図に従って……浅海さんも、船場さんも、二人とも助けて……ごめんなさい、少し疲れちゃいました」
「いいんだ。本当によくやったよ、本当に。ありがとう……」
「これからどうするんですか」
「考えることはあるが、今は休め。私がずっと、香里奈の側にいる」
「……ふふっ、ありがとうございます」
もたれかかる香里奈を支えながら、渚は彼女にかけた苦労を労るように頭を撫でる。そのまま勢いに任されそうになるが、横になっている澪と朱里の姿をちらと見ることで自制する。
その後、看護師が一人やって来て「生徒の危機を助けた教師」に会いたい記者がいると連絡を伝えたが、眠っている香里奈の代わりに渚がそれを断った。
澪と朱里が心中を図った、という知らせは水面下で拡散していった。未成年かつ高校生であることも幸いし、女子高生二人が行方不明になったニュースはそのままフェードアウトする形で触れられなくなる。それが彼女たちであることを知っている者も、その家族と一部の学校関係者のみに絞られた。
病院には澪と朱里のそれぞれの親もやって来た。浅海家の両親は半ばボロ泣きといった様子で目を覚まさない澪に向かって叫び、船場家の母親は何も言わずに朱里の前で涙を流していた。それぞれ、娘を救ってくれてありがとうと香里奈にお礼を言った後に、何かしら思ったことがある様子で病室を去って行った。
「お二人は、いつ目を覚ますんでしょうか……」
「呼んでみるか?」
「えっ? 青凪先生、それはどういう……」
「おーい、もう帰ったぞ」
とんとん、とベッドを叩くと、横になったまま目を閉じていた朱里が待ちくたびれたような表情で目を覚まして起き上がった。突然ぬっと身体を起こすものだから香里奈は腰を抜かして椅子から転げ落ちてしまう。
「湊先生、大げさだよ。先生が助けたんだからもう少し自信持って」
「わ、わあっ、船場さん……!」
「多分、澪も起きてるんじゃない? 澪、早く起きろー」
朱里が呼びかけると、澪が瞼をパチパチ瞬かせるようにして目を覚ました。何を喋ればいいか分からず困っている様子で朱里の方を見た後、香里奈と渚と目を合わせるが、今の状況が把握できていないようである。
「あれ、朱里ちゃん、私たちどうなったの」
「最後、信じてくれって言っただろ……ここから逆転するんだよ、澪」
「それに、先生も……」
「あー、澪ちゃんはひめちゃんから何も聞いてなかったのか……」
「浅海さん、何も知らされてなかったんですか……」
「いや、言っちゃったら澪は絶対余計な心配しちゃうと思ってさ、だから最後まで言わなかったんだけど――ああ澪、待って、そんなに睨まないで」
隣のベッドで横になる澪は、自分だけ仲間外れにされた恨めしさを鋭い視線に込めて、冷や汗をかいた朱里の顔を貫いた。
「……絶対に、あとで仕返しする。朱里ちゃんの弱点全部知ってるから」
「わかった、ごめん、だから勘弁して……」
「~♪ なあ香里奈、ちょっと外の空気が吸いたくなってきたなぁ」
「ええ、私も座りっぱなしで身体が痛くなって……」
え、ちょっと先生方行っちゃうの、と慌てる朱里を横目に香里奈と渚はニヤニヤ笑う。そして「またすぐに戻る」「しっかりお話をしてくださいね」と言い残し、大人二人は部屋を出て行ってしまったのだった。
後に残された朱里が澪の方を振り向く。貸しだよ、と澪が不敵に笑った。出会った頃よりもたくましくなった澪に朱里は諦めのムードを漂わせ、いつかやってくる仕返しの日を妄想しては頬に熱を帯びさせていた。
浅海家と船場家の娘二人は共に心中を試みた――が、それは二人が海に入ってすぐに救助に入った一人の女教師によって"計画通り"失敗に終わった。一旦二人が死を選んだことはお互いの両親が抱く先入観を「それどころではない」と粉々に打ち砕き、後に両家が正式に「和解」することとなる大きなきっかけとなる。
『……心中するから助けて欲しいって、何言ってるんだよ、ひめちゃん』
『聞いて、渚ちゃん。あたしたちの両親は頭でっかちだから、理屈を並べても絶対に納得してくれない……だから、そんなものが吹っ飛ぶくらいの出来事を作らなきゃダメなの』
『そんなこと言われたって、下手したら死ぬんだぞ』
『渚ちゃん、保険医だから知ってるよね? 人が溺れたらどれくらいで死んじゃうか……』
『バカ、簡単に言うなよ! そんなこと……それしかないのか!』
『叫ばないで、澪が起きちゃう』
『――分かった。お前がそこまで言うならこっちも腹を決めよう。香里奈にも助けてもらうか……アイツは確か、服を着たまま泳げるはずだったな』
『ありがとう渚ちゃん。私たちの命……預けたよ』
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